2018年9月17日月曜日

ボトム・クオークの湯川結合で見えてきたタイムトラベルの可能性

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   ボトム・クオークの湯川結合で見えてきたタイムトラベルの可能性

                           水城ゆう

 だれもが過去の失敗を悔やむことはあるでしょう。あのときこうすればよかった、あるいは、あのときあんなことをしなければよかった、その時点にもどれればいいのに、もう一度やりなおせたらいいのに、と。
 我々ハドロン衝突型粒子加速器のチームは、ヒッグス粒子がボトム・クオーク対へと重力崩壊する事象の観測をATLAS側でおこなっていたときに、質量起源の理論モデルによって裏付けられていた湯川結合のゆらぎを測定することに成功しました。質量は時間に変換できますから、ニュートリノ振動を反物質的に減速してやることによって、時間を反転させうる地平が見えてきたことを意味します。
 一般に時間とは不可遡なものであり、リニアに進行するものと思われて(思いこまれて)いますが、もちろんそうではなく、局所存在的なムラがあり、ときには可遡的であることが第三世代フェルミオンの観測結果を待つまでもなく提言されていたことでした。実験高エネルギー物理学の立場からいえば、我々は確率冷却法をもって時間不可遡のもつれを打ち破るべくミューオンに張り付きますが、同時にまた、量子分野の理論物理側からも破られる可能性があることを高らかに予言するものであります。この予言はあらかじめ決定されていたことではありますが。

2018年9月3日月曜日

ビッグウェーブ・サーファー

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   ビッグウェーブ・サーファー

                           水城ゆう

 足首からぽっきりと折れて壊れてしまったマリア像と十字架のある丘のてっぺんに仁王立ちになって、カルロスは街と岬と海を見渡す。
 ナザレの白っぽい街は丘の中腹から浜に向かって所狭しとなだれ寄せている。数年前に作られた岬の展望台には、ヨーロッパ中からやってきた観光客が集っている。ヨーロッパどころか、アメリカやアジアから来た客もいるにちがいない。あのカメラを構えた男は、どう見ても日本人だろう。驚異的な視力で、カルロスはひとりひとりを見分ける。
 それから、岬の沖へと目を転じる。
 観光客たちには残念なことだろう、今日の波は六メートルにも満たない。だから彼だって海に出ないのだ。朝からボードに触ってすらいない。それでも波頭は派手に崩れ落ちて、下腹にひびく音を立てている。
 このまま十月が終わってしまうつもりだろうか。このシーズン、まだ一度もビッグウェーブには乗っていない。天気予報では、しかし、明後日の引き潮の時間に、かなりの波が期待できそうだとか。
 もう少し待つか。
 丘から街へと、足場の悪い岩場の道を、カルロスは軽やかに駆けおりた。もうすぐ五十に手が届くとはいえ、今シーズン絶好調で、身体は軽い。
 ねぐらに借りているガレージのロフトにもどる。借り賃はゼロ。その代わり、オーナーの庭の手入れと子どもたち——それがまた六人もいるときている——の世話をたまにすることになっている。家族をバルセロナに置いてひとり、二か月も波乗りに集中するためにここに来ている。そのくらいどうってことない。
 去年はでかいのに乗りそこねて、肋骨を四本も折った。むち打ちにもしばらく苦しめられた。今年、復帰すると宣言したとき、さすがに家族にもいやな顔をされた。知り合いからは、いい歳してなんで波乗りなんてのに金をつぎこむ、もっと家族を大事にしろといわれた。
 しかし彼は今年ももどってきた。
 仲間のなかには世界記録が目標のやつもいる。スポンサーを獲得してプロになるのが目的のやつもいる。女にもてたいだけのやつもいる。
 カルロスも聞かれたことがある。なんでビッグウェーブに乗るんだ、と。
 死と隣り合わせのときが一番生を感じるからだ、と答えたが、本心じゃない。そのことばはだれかの受け売りだ。彼がでかい波に乗るのは、波が彼の一部だから。いや、逆だ。彼が波の一部だからだ。
 二〇メートルを超えるばかでかい波に乗り、七階建てのビルの高さからまっさかさまにすべり落ちるとき、頭のなかは真っ白になり、自分が生きているのか、死んでいるのかすらわからなくなる。おれはまちがいなくこの瞬間のために存在しているんだと感じる。
 どんな形であれ、人はかならず死ぬ。そのときに、ある瞬間の感覚に輝かしく包まれて、笑いながら息を引きとれるかどうかってことだ。
 まったくおれって自分のことしか考えちゃいねえよな。カルロスはひとり、薄暗いガレージのロフトで低い笑い声を漏らした。

2018年8月27日月曜日

クラリネット

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   クラリネット

                           水城ゆう


 その人はそらの上からやってきた
 古びた黒いクラリネットを持って

 その人がクラリネットを吹くと
 古びた音がした
 アルトサックスでもフルートでもなく
 リコーダーでもオーボエでもない
 そのクラリネット吹きは
 いろいろなものを連れてきた

 ぜんまいじかけの柱時計
 ぎざぎざのついた洗濯板
 足踏み式のミシン
 三角乗りした自転車
 土でかためたかまど
 炭を乗せるアイロン
 手で汲みあげる井戸ポンプ
 黒板とチョークと黒板消し
 すこし調律の狂ったアップライトピアノ
 はさに干した稲の束
 軒に吊るした干し柿
 ハエ取り紙と汲み取り便所
 ナイフで削った鉛筆の先
 竹で作った鳥かご
 アカハライモリの住む田んぼ
 蛍が生まれる用水路
 カッコウが鳴く向い山
 渓流の飛び込み岩
 ツバメの巣
 夕立
 つらら
 雑木林

 クラリネット吹きは
 なつかしいメロディを何度か吹くと
 またそらの上にもどっていった
 連れてきたものたちも
 一緒に連れてかえってしまった
 それからというもの
 古びた黒いクラリネットは
 一度も見かけていない


2018年8月20日月曜日

夏の思い出

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   夏の思い出

                           水城ゆう

 ほかにはだれもいない高校の屋外プールには、暖かい雨が降りそそぎ、水面には無数の波紋が広がっている。
 ぼくらは首から上だけを水の上に浮かべ、水中で手足を触れあわせながら向かいあっていた。
「時給っていくらなの?」
「六百五十円」
「まあまあだね」
「でも二時間だからね」
 話すと声が奇妙な具合に水面を伝わり、プールのへりにぶつかってもどってくる感じがあった。屋外なのに、閉じられた部屋のなかにいるような親密さ。
「勉強する時間はあるわよね」
 彼女は先に京都の会社に就職して、ぼくが京都の大学に進学するのを待っている。そういう青臭い段取りになっていた。
「まあね」
 手をのばすと、水着に包まれた彼女の胸に指先が触れた。
「いつ戻るんだっけ?」
「お盆休みは明後日まで。って、いわなかったっけ? 午後の雷鳥で戻る」
「そっか」
 雨は当然、水のなかまではとどかず、ぼくらの髪と顔を濡らしている。
「大学に行ったら、もうすこし稼げるバイトしたいな」
「どんなの?」
「わかんないけど……プールの監視よりは稼げるやつ」
「稼いでどうするの?」
「そうだな、旅行に行きたいな。海外とか」
「いいね。いっしょに行こうよ」
「うん。来年の夏までぼくたち付き合ってればね」
「どういうこと?」
「もうすぐ別れちゃうんだよ、ぼくたち」
 なぜそんなことをいったのか、自分でもわからない。しかし、それは事実なのだと、ぼくにはわかっていた。
「どうしてそんなことをいうの?」
「ほんとうのことだから。ぼくたち、長く付き合わないんだよ。来年はぼくは京都の大学に合格するけど、きみは仕事をやめてこっちに帰ってきちゃうんだ。夏はぼくは京都の中華料理屋で深夜のバイトをする。その前にガソリンスタンドのバイトもちょっとやるかな。でも、深夜のバイトのほうが稼げるからそっちをやる。で、けっこう稼ぐんだけど、旅行には行かない。深夜のバイトをやめたあと、教材の配達のバイトをやるんだ。ほら、運転免許があるからね」
 自動車教習所にちょうどいま、通っているところだった。
「でも、これも長続きしない。バイト仲間から祇園のジャズバーのバーテンダーの仕事を紹介されるから。その仕事をぼくは三年くらいやる。筋《すじ》がよくて、マスターから本職にならないかと真剣にくどかれる。けど、ぼくはピアノ弾きになるんだ。ジャズバーに出入りしていたバンドマンの生活が魅力的でね。二年くらいやるんだけど、カラオケブームが来て仕事がなくなっちゃうんだ」
「カラオケってなに?」
 そうか、まだこの時代にはカラオケというものは存在しないんだった。彼女が知らないのも無理はない。
「仕事がなくなっちゃったぼくはしかたがないから、小説を書いたりする。結局はこっちにもどってきてピアノの先生なんかやるんだけど、書いた小説が出版社の目にとまって、職業小説家になるんだな。十年くらいやるんじゃないかな。そのあとは出版もうまくいかなくなって、自分で会社を起こしたり、ネットコンテンツの仕事をしたり、自分でもうまく説明できないような感じになっていく。そのあとのことはよくわからないな。自分でもどうなるかさっぱりわからない……」
 気がつくとぼくはひとりで話している。話していたはずの彼女はどこにもいない。そしてここは学校のプールでもない。海のまっただ中だった。
 空には雲が低くたれこめていて、見上げると雨つぶが私を押しつぶすかのように重く降りしきってくる。
 ここはどこなんだ。いつなんだ。彼女はどこに行ったんだ。ぼくが話していたのはなんなんだ。未来なのか、記憶なのか。
 なにも思いだせない。
 ぐるっと見回しても、陸地はどこにも見えない。
 私はいったいどうしてこんなところに……?

2018年8月14日火曜日

ファラオの墓の秘密の間

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   ファラオの墓の秘密の間

                           水城ゆう

 外気の侵入を完全に遮断するためのシールドで覆われた開口部をくぐり抜けると、すでに送りこまれていたロボットの照明で内部はくまなく照らされていた。
 明るすぎる。いや、これでも暗いのか?
 明暗の感覚が狂っている。
 影の部分にまで陽光がまわりこむかのようなギザの砂漠の強烈な日差し。そこから闇に閉ざされた大回廊と王の間を通り、ミューオン透視によってあらたに発見された秘密の間へ。ロボットの照明が昼より明るいように感じるのは、極端な差異がもたらす錯覚か。
 ほとんど宇宙服に近い完全装備の防護服に身をかためた我々は、秘密の間の奥へ慎重に歩を進めた。ロボットによる事前調査で、すでに驚くべき副葬品の数々が確認されていたが、あらためて直接目にすると、心臓が締めつけられような歓喜に包まれる。
 すでにロボットアームによって蓋が取りはずされている石棺のまわりに、我々は静かに集合した。四千五百年間眠りつづけた王の遺体をのぞきこむ。
 当然我々は王の遺体にはツタンカーメンのような黄金のマスクが装着されているものと予想していた。ところが、クフ王は素顔のままそこに横たわっていた。ただし、頭部には帽子がかぶされている。
 その帽子はどう見ても日本の麦わら帽子だった。
 そう、子どもが夏の海辺でかぶるあれ。大人が炎天下の草むしりでかぶるあれ。そんなものがなぜこんなところに……
 声もなく呆然と立ちつくす日本チームを、フランスチームは不思議そうな顔をしてながめている。


2018年7月30日月曜日

南へ

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   南へ

                           水城ゆう

 夕暮れになってバッテリーがこころもとなくなった。速力を半分に落とし、抵抗を減らす。とたんにボートがかきわける水音が消え、静寂が強調される。
 とはいえなにも音がないわけではない。先ほどの夕立(スコール)の名残りを葉にためている木々から、絶え間ない水滴が水面に落ちている。姿は見えないが、ときおりサギの鳴き声が森の奥から聞こえる。
 ヒロハシサギだな、とフルヤは反射的に判断する。中米を生息地とする鳥がここにいる理由は別として。
 しかし、彼の専門はヒルギなどに着生する熱帯ランの植生だ。
 すでに汽水域だが、このあたりはまだ塩分濃度が低い。さらに南へくだり塩分濃度が高まると、呼吸が重くなるように感じる。
 フルヤは暮れはじめた空を見あげて思う。もうひと雨来そうだ。西の空はピンクに近い紫に染められている。手前にスカイツリーが湿度のなかにくすんで黒々と浮かびあがっている。
 今夜はこのままどこかに係留し、明日も調査を続行する。ちょうどこのあたり、かつての江戸川の真上で、市川の高層マンション群が東にある。水位は四階あたりまであるが、着艇して上層階に行ければ湿った衣類を乾かすことができるだろう。
 あたりをつけてマンションのひとつに船首を向けた。おそらく京葉道路かなにか、苗床にしてヒルギが長々とマングローブ帯を作っている。海面上昇前は石垣島以南にしか生育しなかったニッパヤシも、帯状のところどころで林になっているのが見える。
 マングローブの脇をゆっくりと進めると、ヒルギモドキの枝のいくつかからフウランの一種が白い花をつけて垂れさがっているのが確認できた。花穂のシルエットがあまり見慣れたものではない。新種かもしれない。明朝確認しようと、フルヤは位置を頭に刻みこんだ。
 マンション北側の非常階段に調査用のゴムボートを横着けした。手を伸ばせばちょうど五階部分の階段の手すりに届く。が、金属もコンクリートもボロボロに腐食していて、ボートを係留するには危険だ。もやい綱をにぎって、ひょいと手すりのすきまから踊り場に立った。奥のほうにもうすこししっかりともやい綱を固定できるなにかがあるだろう。
 踊り場から振りかえると、半分水没して夕闇に溶けこみかけているトーキョーのシルエットがあった。ヒロハシサギが一羽、大きな嘴を突きだし、ゆっくりと水面を渡っていくのが見える。
 明日はもっと南へ、フルヤの脳裏をそんなことばがよぎる。

2018年7月22日日曜日

アルチュール

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   アルチュール

                           水城ゆう


 もたもたとお茶をいれるその手際のわるさに、私はいつものようにいらだってしまう。二a型の学習アルゴリズムに問題があることは承知の上で彼を購入したのだが、茶を所望したときはそれを後悔する。
「いったでしょう、アルチュール。茶葉は倍以上使って濃くしないと飲めたものじゃないって。そんなふうにとろとろいれない! 冷やすときは一気に氷に注ぐのよ」
 私のとげのある口調に彼はびくっとなり、さらに動作が鈍くなる。その感情反射アルゴリズムは頭の悪いパブロフの犬のようだ。
 いつまでもそんな風だと廃棄だからね。いつも思うこれは口に出さない。そのかわり彼に注文を出す。
「なにか詠んでちょうだい、アルチュール。なんでもいいけど……そうね、テーマは紅茶で」
 彼は一瞬かんがえ、すぐに口を開いた。
 そんなときはよどみない。しかも私のためにアイスティーを運んでくる動作もまったくとどこおりなく。

 おれの魂は琥珀の酒
 ただれた溶岩を伝って
 冷たい世界の化石となる
 未来永劫ここから見張れ
 淫らな女どもを

 聴きながら私はいつわりの優越感にひたる。二a型のアンドロイドを所有する身分。とはいえその私も三d型という、いまや骨董品にちかい型式の人工知能搭載ヒューマノイドではあるのだが。

2018年7月7日土曜日

落雷

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   落雷

                           水城 雄


 中継地の桟橋沖を通過したとき、二、三の人影がこちらに向かって手を振り、なにかいっているのが見えたが、僕もジョエルもそれを無視して下手《しもて》のマークへと直進した。
 風はアビームからややのぼりぎみ。ときおりやってくるブローに合わせてハイクアウトし、艇のバランスをたもつ。つま先をフットベルトに引っかけ、尻はほとんどデッキの外にはみだすほど身体をそらす。船首が立てる波しぶきと、二十分ほど前から降りしきっている雨つぶが、眼をあけていられないほど顔面をたたく。
 ヨットはいま右舷開き《ポートタック》で走っている。風が左へと振れていく。これ以上振れると、マークまでのぼりきれなくなって、方向転換《タック》が必要になる。舵棒《ティラー》を握っているジョエルはぎりぎりまでのぼらせようと、メインセールを引きこみ、自分もハイクアウトして艇を起こしにかかる。
 まだ五時前なのに、日暮れすぎのように暗い。湖の四方を囲んでいる山の稜線が、雨のせいもあってほとんど見えなくなってきた。たまに稲光がそちらの方角の稜線だけをくっきりと浮かびあがらせる。
 雨のせいで雷鳴の輪郭もぼやけている。
 下手のマークをノータックでかわした。レースは桟橋沖をスタートラインに、時計回りに下手マーク、中島、上手マーク、そして桟橋に戻る。これで一周。順風なら一時間弱の一周を二十四時間で何周できるか、あるいは二十四時間以内に二十四周回を先に終えたチームがフィニッシュというルール。
 午前十時にスタートして、この周回が十周めとなる。今日は風がある。とくに前線が近づいてきて風が強まり、強風のなか雨になった。
 ストームウェアをふたりともあわてて着こんだ。風がくるくる回って気を許せない。
 気がついたら並走しているレース艇はいなくなっている。そういえば、桟橋にセールを下ろしてつないでいる二艇があった。ほかにもすでに何艇かリタイアしたチームがありそうだ。
 桟橋で叫んでいたのは、レース中断を告げる声だったのかもしれない。
 ジョエルはまだ戻るつもりはないらしい。下手のマークをかわし、中島へと向かうコースは、風が真追っ手になった。急に波切り音が静かになる。それでもスピードはかなりのはずで、真横に広げたメインセールは後ろからの風をいっぱいに受け、ヨットを前のめりに押しだしていく。
 左手の稜線が鋭く光った。
 二、三、四……
 僕は数える。
 五と数えかけたところで雷鳴が聞こえた。
 まだ遠いな、と思ったとき、また光った。だいぶ明るく光った。
 一、二……雷鳴。
 雨が小降りになったようだが、追い風のせいでそう感じるだけかもしれない。引き波を見れば、艇がかなりスピードをあげていることがわかる。
 薄眼で見上げると、マストのてっぺんにはぐしょ濡れになった風見がへばりついている。マストはいかにもなにかを誘っているかのように、前後に揺れている。
 ジョエルは心配しているようすもない。ただまっすぐ中島をにらんでティラーをあやつっている。桟橋のほうをうかがったが、暗い雨のむこうになにも確認できなかった。
 また光った、と思った瞬間、衝撃と同時に目の前数百メートルの水面に電撃の柱が立った。ほんのわずかにとがった波頭に落ちたのだ。これくらい近いと、なにか乾いたものが耳元で破裂したような衝撃だった。
 ジョエルが僕を振りかえって、腹の底から笑いはじめた。僕も笑った。
「これにオチなくてヨカッタねー」
 ふたりで笑いころげる。
 あとで知ることになるが、僕らがレース中止、緊急避難の警告を無視して走りつづけたことで、本部の運営はかんかんになっていた。

2018年3月11日日曜日

遠くからやってきた波に乗るということ

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   遠くからやってきた波に乗るということ

                           水城ゆう


 向かい風でびゅんびゅん飛んでくる砂粒《すなつぶ》を頰に感じながら、浜を横切り波打際《なみうちぎわ》に降りていくと、白く泡立った波が最後まで白いまま足元に打ち寄せる。
 リーフブーツに染みこんだ海水が今日の水温の低さを伝えてくる。
 半分白くなった髪が強風にあおられる。もう砂粒は飛んでこないかわりに、冷たい飛沫が唇に塩気《しおけ》を運んでくる。
 風と、いったん高くそびえ立った波がくだけて海面をうつ音が、耳を聾《ろう》さんばかりだ。かまわずざぶざぶと、サーフボードを水にさらわれないように高くかかえあげながら、沖へと進んでいく。
 浜には人っこひとりいない。
 日はすでにのぼっているが、雲にさえぎられている。雲は速い動きで全天をおおったまま沖から陸の方角へと流れている。
 ウェットスーツのすきまにはいりこんでくる海水は、ちぢみあがりそうに冷たい。が、それも一瞬のことだとわかっている。体温が水をあたため、そこにとどまり、身体をつつむ。
 海面の位置が腰のあたりまで来たとき、彼はサーフボードを水面に寝かせ、その上に上半身を乗せた。沖に向かって両手でパドリングをはじめる。

 校庭の水飲み場で手を洗っていると、クラスメートのありすがやってきた。
 横にならんで、蛇口をひねり、手を洗いはじめる。
「あやちゃん、もう帰り?」
 手を洗わなきゃならないことなんてなにもしてないはずだけどな、ありすは、と思いながら、あやかはうなずく。
「うん」
「昨日、風間くんに告《こく》られたんだって?」
 唐突に聞かれる。だれから聞いたんだろう、まさか風間くん、みんなに宣伝してまわってるわけじゃないよね。
 逃げられないと思ったので、正直に答える。
「うん」
「付き合うの?」
 ありすも風間くんのことが好きなんだろうか。蛇口を閉めながら彼女を横目で見てみる。ありすは前を向いたまま、流れおちる水に両手を突っこんでいる。
 なるほど、好きなんだな。
「付き合わないよ。興味ないもん」
「風間くんに?」
「男に」
「やっぱ慶応めざしてんの?」
「なんで?」
「だって、あやちゃんち、パパもお兄さんも慶応でしょ?」
 人んちの事情、よく知ってるなー。でも、わかんないよ、進学のことなんて、まだ。進学どころか、いまこの瞬間だって自分がどうしたいのかわからないというのに。
「落ちこぼれのわたしが慶応なんか無理むり」
「またご冗談を」
「じゃ、お先に。また明日ね。ばいばい」
 ついでにいうなら、おじいちゃんも慶応だ。

 波高は三メートル弱というところか。風が強いわりには波はちいさい。しかも海風だ。
 日本海側に低気圧が通過中で、南風はまだしばらくつづくだろうから、午後から明日にかけてもうすこし波は高くなるかもしれない。
 明日も来るか? 今日は体力を温存して、あがるか。
 彼はひとり、苦笑する。まだ一本も乗っていないのに、もう帰る算段か。
 ひとつ、ふたつ、みっつと波をやりすごし、沖へ、沖へと出る。
 沖に向かって右側、湾の西側に、嘴《くちばし》のように張り出した岬があり、そこから目には見えないけれど海中に長く張り出した砂州《さす》がある。沖からやってきた波はそこで大きく持ちあげられる。うまくつかまえれば、浜の浅瀬にぶつかって崩れるところまで持ってこれる。
 今日は海風で乗りにくいが、何本かはうまくつかまえられそうだ。
 パドリングでポイントまで来ると、ボードにまたがって、いったん息をととのえる。
 還暦をすぎたら、あらたにチャレンジするスポーツはサーフィンと決めていた。いまさらぬるいスポーツはごめんだ。おとろえゆく身体こそ使いきってみたい。若いころ、マリンスポーツはいくつか経験があった。とくにヨットは学生時代に小型のディンギーをかなりやりこんだ。レースにも何度も出た。ウインドサーフィンもすこしだけ経験があった。が、サーフィンは機会にめぐまれなかった。いまこそそのときだと、還暦をむかえた年の秋、浜から海水浴客の姿がなくなるころを見計らって、サーフショップをたずねた。
 最初はレンタルで、そして孫のような年頃のコーチについて、基礎を教わった。いまはウェアもボードも自前で、そしてひとりで通っている。それが気にいっている。
 よさそうな海水の盛り上がりがゆっくりとこちらに近づいてくるのを確認して、彼はボードの上に身体を横にすると、波に背をむけてパドリングをはじめる。

 帰宅するとパパがエプロンをつけて夕飯の支度《したく》をしている。めずらしい光景じゃない。いうとびっくりする人がいるけれど、あやかにとっては小学生のころから見慣れている。
 ママが死んだのは小学二年の冬。
「今日はなに?」
 聞くと、ぶっきらぼうに返ってくる。
「さよりの天ぷら。豪華具沢山のミソスープもあるぞ。食うだろ?」
「にいちゃんは?」
「五時半もどり。だから、仕上がり予定もそのへん」
「置いといて。ちょっと遅くなるかも」
「出かけるのか?」
「気分転換」
「いつもの、な。また煮詰まったか」
「休みなの?」
「早退。風邪気味かもって嘘ついて帰ってきた」
 小学生ですか、とあやかは思う。そして、見抜かれてるな、とも思う。たしかに煮詰まってる。
 制服から着替えると、出かける支度をする。
「行ってくるね。帰りはたぶん六時すぎ」
 どこへ、とは聞かれない。しかし、
「今日は海風だぞ」
 背中にいわれてまた、見抜かれてる、と思う。

 四本めくらいだったか、いい感じに乗れた。足裏――といってもリーフブーツの底だが――がぴたっとボードに吸いつき、腰が低く安定する。右の肘と右の膝、左の肘と左の膝が、まるでゴムバンドでつながっているように連動する。ほんのわずかな体重移動でサーフボードが大きく弧を描いて転換する。最後は波頭を突っ切って、ボードごと自分を空中に放りだす。
 宙を舞いながら頰に波しぶきを受け、雲間からのぞいた日の光を目撃し、迫りくる泡だった海面に手をのばす。
 着水の瞬間、砂浜に人影があるような気がしたが、そんなことはもうどうでもいい。水面に顔をだし、ボードを抱えこむと、ふたたび沖にむかって漕ぎ出す。
 波に乗りたいというより、そのまま水平線の向こうまで、命のかぎり漕ぎ続けたい衝動にかられる。

 だれかに会うといろいろ聞かれそうなのが嫌なので、直接ボードロッカーに向かった。水着にはもう家で着替えてある。
 ひとけはなく、サーフボードを引っ張りだしてもだれからも声をかけられなかった。そりゃそうだろう、シーズンにはほど遠いまだ冬といってもいい時期の、午後の遅い時間。だれが波乗りに来るというのだ。
 ところが、浜に出てくると、沖に人影があった。
 ひとめでわかった。
 おじいちゃん。
 力強いストロークで、沖に向かっている。
 そうそう、そっちにいいポイントがあるよね。知ってるよ。
 ところがポイントをすぎても、彼はいっこうにパドリングをやめようとしない。どんどん沖へと向かっていく。
 あやかは小走りに海にはいると、ボードに身体を投げ出すようにして、彼のあとを追う。
 学校? 進学?
 どうだっていい。
 おじいちゃん、あんなに遠くに漕ぎ出してる。
 追いつこう。