2015年7月29日水曜日

今朝の蜜蜂は羽音低く飛ぶ

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   今朝の蜜蜂は羽音低く飛ぶ

                         水城ゆう



 日が出たばかりの畑を、雨滴をためたミゾソバを踏みしめ、柔らかな土の感触に警戒しながら、彼女はゆっくりあるく。目的を持って。まっすぐに。
 ひさしぶりに雨があがった。谷の空気はたっぷりと湿り気をおびている。決然と歩く彼女の影は、くっきりと長く背後へとのびている。
 ふいに耳の至近距離を振動音が通過する。
 ぶうん。
 蜜蜂が一瞬にして通過していくが、すばやくて姿を追うひまもない。
 さらにもう一匹。
 ぶうん。
 うるさいな。
 彼女は口のなかでつぶやく。自分がほんとうにそうは思っていないことを自分でも知っている。しかし彼女はもう一度いう。
 うるさいな。
 蜜蜂にむけていっているのではないことに、すでに気づいている。
 うるさいな、もう。あいつも、あの子も、おかあさんもおとうさんも、それから自分も。自分がいらいらしていることに気づき、そのことでさらにいらいらする。なんでなんでもないのにこんなにいらいらするんだろう、うざいよ、もう、自分。
 ぶうん。
 蜂が飛びさった方角には養蜂箱がならんでいる。一列、二列、東西の方角に長くならんでいる。たぶん三十箱以上ある。べつの畑にもある。山向こうの谷にはもっとある。うちの仕事だ。
 梅雨も終わりに近づき、夏も本格的になると、蜜が取れる花もすくなくなる。幼虫や女王蜂のために、働き蜂たちはたくさん働きたくなっているのかもしれない。
 ならんでいる養蜂箱の一番端から異常はないか点検していく。電気で対策はしているけれど、山からの動物がまれに箱を襲うことがある。あるいは、蜜蜂が病気になったり、ダニやスムシにたかられたりして、被害をこうむることもある。なにか異常があれば、生まれたときから蜜蜂とすごしてきた彼女には、すぐにわかる。だから、朝の見回りは彼女の仕事になっている。
 眠いけれど、朝一番のこの仕事をいやだと思ったことはない。谷の空気を吸い、蜜蜂たちといっしょにいる感じは、彼女を落ち着かせてくれる。しかし、今朝は理由のないいらいらが彼女をわずらわせている。
 いらいらを追いはらおうと、彼女は蜜蜂の点検に集中する。もう花粉を持ち帰ってきて、巣箱にもぐりこんでいく蜜蜂がいる。うしろの両足にくすんだ黄色の花粉だんごをくっつけて帰ってくる。よかった、この子はどこかに花を見つけたんだ。それを仲間に知らせて、みんなが取りに行くことだろう。そしたらこれは、幼虫の体を作るタンパク源になる。
 クラスメートで養蜂の仕事を理解している者はいない。担任の霜島先生だって理解しているとは思えない。
 今年の春、年度が変わったばかりのころ、霜島先生から訊かれた。
「ミツバチが全滅しちゃう病気が世界中で流行しているらしいけど、おまえのところはだいじょうぶなのか?」
 蜂群崩壊症候群というやつで、日本ではまだそれほど大きな問題になっていないけれど、欧米では大問題になっている。ダニ、ウイルス、農薬など、いろいろな原因がさぐられているけれど、まだはっきりとしたことはわかっていない。特定の農薬を糾弾する環境運動家もいるけれど、問題はそれほど単純じゃない、とおとうさんがいっていた。
 霜島先生が心配してくれていることがわかって、そんなことを伝えたのだけれど、うまく伝わったかどうかはわからない。
 クラスメートたちとそんな話はまったくできないし、する気も起こらない。みんな、ゲームかアニメかファッションか、友だちや友だちの家のことや先生たちの噂話か、どうでもいいようなことを一日中熱心にしゃべっている。
 彼女は突然、自分がなんにいらだっているのかわかったような気がする。
 そうだ、あたしはみんなの愚かさにいらだっているんだ。いや、みんなだけじゃない。先生たち大人も、社会全体も、あたし自身も愚かで、なんにもわかっていない。もっといっぱい知りたいのに。もっといろんなことがわかりたいのに。
 日がだいぶのぼった。まだ穂をつけていないススキの葉先には乾ききっていない水滴がキラキラと光っている。その手前を、金色に光った蜜蜂たちがピュンピュンと山に向かって飛んでいく。斜め三〇度くらいの角度で飛びあがり、すぐに見えなくなってしまう。その先の山すその谷川ではアオサギが岩の上から朝食を物色している。
 世界はこんなに美しいのに、美しく見えているだけなのかもしれないと思って、彼女は苦しくなる。
 一番奥の巣箱の前で、彼女は足をとめる。なんとなく養蜂箱のふたをそっと持ちあげてみる。面布は着けていない。なかでは数万匹の蜜蜂が団結しているサインのジュワジュワという羽音をいっせいに立てる。
 異常なし。
 ひたいに一匹のミツバチがコツンとぶつかってきた。
「ごめんごめん。邪魔しちゃったね。すぐに閉めるからね」
 刺されはしないことを彼女はよく知っている。でも、もっともっとミツバチのことを知りたい。おとうさんよりももっとたくさん知りたい。知りたいのはミツバチのことだけじゃない。
 神さま、あたしにこの世の秘密を教えてください。
 祈りながら、彼女はそっと箱のふたを閉める。