2015年12月13日日曜日

暗く長い夜、私たちは身を寄せあって朝を待つ

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   暗く長い夜、私たちは身を寄せあって朝を待つ

                           水城ゆう


 この季節、日の出は午前七時近く、太陽は真東よりずっと南寄りの方角からのぼってくる。母屋《おもや》の屋根のむこうに隠れてまだ光はここまでとどかない。屋根から顔を出し、葉を落とした杏《あんず》と柿の木の枝のあいだから光がとどきはじめるのは午前九時をまわってからだ。それまで私たちは真っ暗な巣のなかで身を寄せあい、身体を震わせて暖をとっている。
 日の光が巣箱にとどくと私たちはようやくもそもそと動きはじめる。門番が今朝の天気をつげる。氷点下近くまで冷えこんでいるが、霜が立つほどではない。水場にも氷が張るほどではない。
 飛べるだろう。
 花はあるだろうか。蜜は集められるだろうか。花粉は採れるだろうか。
 一番の働き者たち数匹が巣門から飛びだしていく。のこった私たちはその音を聞きながら、巣箱の板がすこしずつ温められていくのを感じている。
 私たちの中心には幼虫と卵がいて、彼らがこごえないように、無事に孵化するように、私たちは飛翔筋を震わせて摂氏三十度以上にたもっている。冬越しのために集めた貴重な蜜がエネルギー源だ。それが枯渇しないように、すこしでも蜜源の花があるのはありがたい。
 しばらくすると飛びだしていった仲間が一匹、また一匹と、巣にもどってくる。お腹にはたっぷりの蜜がはいっていて、それを仲間に口移しで渡す。そのにおいで、枇杷の花が満開なのだなと私たちは知る。べつの仲間からはヤツデの蜜のにおいもただよってくる。
 今日は冬晴れのようだ。晴れて暖かいうちにできるだけたくさん、蜜と花粉を集めておきたい。しかし、外で活動できる時間は夏よりずっとみじかく、すぐに夕暮れがやってくる。南西にそびえたつスダジイは常緑の葉を生い茂らせていて、巣箱にとどいていた日差しはもう陰っていってしまう。そうすると私たちはふたたび身を寄せあい、ふたたび朝がめぐってくるのを、暗く長い夜のなかで待ちつづける。

 この季節、日の出は午前七時近く、太陽は真東よりずっと南寄りの方角からのぼってくる。母屋の屋根のむこうに隠れてまだ光はここまでとどかない。屋根から顔を出し、葉を落とした杏と柿の木の枝のあいだから光がとどきはじめるのは午前九時をまわってからだ。それまで私たちは真っ暗な巣のなかで身を寄せあい、身体を震わせて暖をとっている。
 日の光が巣箱にとどくと私たちはようやくもそもそと動きはじめる。門番が今朝の天気をつげる。
 一番の働き者たち数匹が巣門から飛びだしていく。
 私たちの中心には幼虫と卵がいて、彼らがこごえないように、無事に孵化するように、私たちは飛翔筋を震わせて摂氏三十度以上にたもっている。冬越しのために集めた貴重な蜜がエネルギー源だ。それが枯渇しないように、すこしでも蜜源の花があるのはありがたい。
 しばらくすると飛びだしていった仲間が一匹、また一匹と、巣にもどってくる。お腹にはいくぶんかの蜜がはいっていて、それを仲間に口移しで渡す。そのにおいで、枇杷の花が咲いているのだなと私たちは知る。
 今朝は晴れているようだが、私たちは雨のにおいをかぎとっている。午後には雨が降りだすだろう。それまでにどれだけの蜜と花粉を集められるだろうか。いまの季節、外で活動できる時間は夏よりずっとみじかい。今日はとくに短かそうだ。
 雨が降りはじめると私たちはふたたび身を寄せあい、ふたたび朝がめぐってくるのを、暗く長い夜のなかで待ちつづける。

 この季節、日の出は午前七時近く、太陽は真東よりずっと南寄りの方角からのぼってくる。母屋の屋根のむこうに隠れてまだ光はここまでとどかない。屋根から顔を出し、葉を落とした杏と柿の木の枝のあいだから光がとどきはじめるのは午前九時をまわってからだ。それまで私たちは真っ暗な巣のなかで身を寄せあい、身体を震わせて暖をとっている。
 日の光が巣箱にとどくと私たちはようやくもそもそと動きはじめる。門番が今朝の天気をつげる。昨日の雨は夜のうちにやんでいる。冷えこみはゆるく、大気にはたっぷりと湿り気がある。曇り空だ。
 それでも働き者たち数匹が巣門からためらいがちに飛びだしていく。
 私たちの中心には幼虫と卵がいて、彼らがこごえないように、無事に孵化するように、私たちは飛翔筋を震わせて摂氏三十度以上にたもっている。冬越しのために集めた貴重な蜜がエネルギー源だ。それが枯渇しないように、すこしでも蜜源の花があるのはありがたい。
 しばらくすると飛びだしていった仲間が一匹、また一匹と、巣にもどってくる。お腹にはいくぶんかの蜜がはいっていて、それを仲間に口移しで渡す。そのにおいで、枇杷の花が咲いているのだなと私たちは知る。
 晴れて暖かいうちにできるだけたくさん、蜜と花粉を集めておきたい。しかし、外で活動できる時間は夏よりずっとみじかく、すぐに夕暮れがやってくる。

 この季節、日の出は午前七時近く、太陽は真東よりずっと南寄りの方角からのぼってくる。母屋の屋根のむこうに隠れてまだ光はここまでとどかない。屋根から顔を出し、葉を落とした杏と柿の木の枝のあいだから光がとどきはじめるのは午前九時をまわってからだ。それまで私たちは真っ暗な巣のなかで身を寄せあい、身体を震わせて暖をとっている。
 日の光が巣箱にとどくと私たちはようやくもそもそと動きはじめる。門番が今朝の天気をつげる。氷点下近くまで冷えこんでいるが、霜が立つほどではない。水場にも氷が張るほどではない。
 飛べるだろう。
 花はあるだろうか。蜜は集められるだろうか。花粉は採れるだろうか。
 昨日は何匹かの仲間がとうとう帰ってこなかった。しかし、今朝も一番の働き者たち数匹が巣門から飛びだしていく。
 しばらくすると飛びだしていった仲間が一匹、また一匹と、巣にもどってくる。お腹にはいくぶんかの蜜がはいっていて、それを仲間に口移しで渡す。そのにおいで、枇杷の花が咲いているのだなと私たちは知る。と同時に、なにか不吉なにおいを私たちはかぎわける。経験のないにおいだが、それは私たちに警鐘を鳴らしているように思える。
 いまの季節、晴れて暖かいうちにできるだけたくさん、蜜と花粉を集めておきたい。外で活動できる時間は夏よりずっとみじかく、すぐに夕暮れがやってくる。南西にそびえたつスダジイは常緑の葉を生い茂らせていて、巣箱にとどいていた日差しはもう陰っていってしまう。そうすると私たちはふたたび身を寄せあい、ふたたび朝がめぐってくるのを、暗く長い夜のなかで待ちつづける。

 この季節、日の出は午前七時近く、太陽は真東よりずっと南寄りの方角からのぼってくる。母屋の屋根のむこうに隠れてまだ光はここまでとどかない。屋根から顔を出し、葉を落とした杏と柿の木の枝のあいだから光がとどきはじめるのは午前九時をまわってからだ。それまで私は真っ暗な巣のなかで身体を震わせて暖をとる。
 もう仲間はほとんどいない。多くの仲間が出ていったきり、もどってこなかった。蜜を集めに出かける者もいない。巣は不吉なにおいで満ちている。
 私はこの冬を越せるだろうか。幼虫たちはこごえ、卵は孵化しなかった。
 蜜はたっぷりある。この冬を越せさえすれば私も……
 私は身体を震わせ、ふたたび夜が来てふたたび朝がめぐってくるのを、それが何度くりかえされるのだろう、かぎりなく繰り返されるように思える夜と朝の交代ののちにやってくるはずの春を、寒く暗い巣箱の奥で待ちつづける。

2015年10月29日木曜日

待つ

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   待つ

                           水城ゆう


 私は待っている。湖というより池といったほうがいいような、川の支流がせき止められてよどんでいる沼地のほとりで、折りたたみ椅子に座っている。私が待っているのは、動きだ。いまは止まっていて動かない浮きが、動いて水面の下に沈む瞬間を待っている。
 動かない、といったが、実際にはわずかに動いている。いまはほとんど風がない。それでも水面はまったく鏡のように平らというわけではなく、支流から流れこんでくる水の動きでかすかな波紋が生まれている。浮きはその波紋と、ほとんどないとはいえときおりゆっくりと水面をなでて渡ってくる風によって、わずかに揺れている。その浮きが、ちょんちょんと上下に揺れ、水面に丸い波紋を描き、そのつぎの瞬間にはすっと水面下へと引きこまれて消える瞬間を、こうやって私はもう一時間も待っている。
 古びたぜんまいを巻きあげるような鳴き声をあげながら、目の前の水面をオオヨシキリが横切って飛ぶ。
 爆撃にやられた市街地にはまったく動きはない。私は瓦礫の下に身を潜め、待っている。冬だ。気温は氷点下だ。レニングラードの冬に戸外でじっと動かずにいることは、自殺行為に近い。死なないまでも手足や耳、頬を凍傷にやられる。そんななか、私は夜明け前のまだ暗い時刻にここにやってきて、ここに身を潜めている。分厚い毛皮の帽子と耳あて、外套にすっぽり身をくるんでいる。銃身は濡れた手で触ればそのまま皮膚が接着してはがれてしまうほど冷えこんでいるはずだが、トリガーには温めた指をかけている。指を温めなおすために、ときおり下腹部に手をいれ、睾丸をもむよう触る。レニングラードが包囲されてもう十五か月、情報では今朝八時すぎに、ドイツ軍の少将があそこに見える駐屯地に到着することになっている。彼が車から降り、私のライフルのスコープにとらえる瞬間を、私は待っている。
 どこかから煙のかすかなにおいがただよってくる。私は無性に火が恋しくなる。
 雨季のマングローブ林はさまざまな音とにおいに満ちている。乾季にはほぼ干上がっているこの林も、いまは人の背丈くらいの深さまで浸水している。
 私は待っている。水底に打ちこんだ杭のてっぺんに尻を乗せ、両脚を杭にからめて水面をのぞきこみながら、待っている。この下にきっといずれ通りかかるピラルクーの輝かしくきらめく巨体を、手製の銛《もり》をいつでも放てるように構えながら、待っている。
 肉は市場で高く売れるし、塩漬けにしてもよい。それもまた自家用にはもったいないほど高く売れる。うろこは靴べらや爪やすりとして土産物屋に高く売れる。とくに大型のものは珍重される。
 去年のシーズンには最大で五メートル級を仕留めた。今年も大物をねらっている。だから、尻が杭に食いこんで痛くなっても、両足が攣《つ》りそうになっても、全身がこわばっても、一瞬たりとも水面から目をはなさず、銛の構えも解かずに、待っている。
 雨季の森はさまざまな鳥の声で満ちている。熟した果物の濃厚なにおいがただよってくる。たまに熟れきった果実が水面に落下する音も聞こえる。遠くの密林のほうからホエザルのせわしない鳴き声が聞こえてくる。
 ここからは見えないけれど、海のほうからは湿った空気が吹きつけてくる。私は尻を高くかかげて待っている。大西洋からの湿った風は、このナミブデザートを吹きぬけていくが、私は尻を大きく空中に突きだして身体全体でその風をさえぎる。わずかに冷たい私の身体は、湿り気のある風があたるとわずかに結露する。私はそれをただひたすら、待っている。
 私の身体の表面には突起やでこぼこがあり、結露した水滴は身体の表面をつたわって私の首のうしろに集まってくる。すこしずつ、わずかずつ、結露した水滴が伝わって集まってくる。私はそうやって一晩中待っている。朝方になると、集まった水滴は私の頭のうしろに大きなかたまりとなる。その水分のおかげで、まったく水場のないナミブデザートでも私のようなビートルも生きぬくことができる。生きぬくために、私は待つ。いまも夜の時間がすぎ、灼熱の日がのぼる前の至福の一瞬を待っている。
 軍楽隊の音楽が聞こえる。道端の群衆の歓声が聞こえる。まさにいまテレビ中継されているその音声が、どこかのスピーカーから拡大されて流れてくる。ダラスの街を見下ろしながら、私はもう二時間半も待っている。私の姿はだれからも見えないはずだ。私は建物の上に姿を隠し、狙撃用のライフルを構えている。照準を合わせたスコープのなかにはパレードのために通行規制された道路や、旗を持った沿道の観衆が見えている。
 今日は金曜日。正午をすぎて二十数分がたとうとしている。やがて視界のなかにパレードの車列を先導する白バイが三台、見えてくる。道はばいっぱいを使って邪魔者を警戒するように白バイが通っていくその後ろから、黒のオープンカーとセダンがくっつくようにして走ってくる。そのまわりを何台もの白バイが取りかこんでいる。
 オープンカーの後部シートにジョン・Fの顔を確認する。すぐ横にはジャクリーンもいる。私のライフルのスコープにはほぼ正面にジョン・Fの頭部が見えていて、照準の中央に彼をとらえる。
 窯では薪《まき》が赤々と燃えている。時々火がはぜる音がする。薪は先ほどみんなで、慣れない腰つきで割ったばかりだ。その薪をフィルが煉瓦《れんが》を組んで作ったピザ窯で燃やし、窯のなかを充分な温度にする。だから、薪はストーブに入れるよりも細く、最終的には鉈《なた》を使って割った。
 窯小屋の外は徐々に夕闇が落ちて星々の輝きが見えはじめている。私はピザ生地が発酵するのを待っている。生地が発酵したら、丸くのばして、具を乗せ、それを窯にいれて焼く。私はそれを待ちどおしく待っている。
 私は待っている。ハレー彗星がやってくるのを。この前にハレー彗星がやってきたのは一九八六年で、そのときも私は七十五年待ったのだった。いまもまた七十五年待っている。満天の星だ。オリオンが東の空からのぼってくるのが見える。ミルキーウェイも見えるような気がするが、ひょっとして雲なのかもしれない。南の空に出ていて、ミルキーウェイは見えないだろう。つぎにハレー彗星がやってくるのは二〇六一年だ。私はそれを待っている。
 私は待っている。半減期を。半減期の半減期を。半減期の半減期の半減期を。しかし、それは永久になくなりはしない。人にも半減期はあるのか。私は待っている。
 もうすぐ息がたえる。私は待っている。自分の呼吸が止まるのを。自分の鼓動が停止するのを。だれかがご臨終ですと告げるのを。私はそれを聞くだろう。その声を私は待っている。
 まだ声が聞こえる。街の音が聞こえる。部屋の音が聞こえる。私は待っている。
 外からは人々の話し声が聞こえる。学生街で、若い男女の笑いあったり、ふざけあったりする声が聞こえる。車が通りすぎる。すこし離れた甲州街道からは救急車のサイレンが聞こえてくる。
 室内には人が何人かいる。話し声はしない。みんな耳をすませて聞いている。ピアノの音を。朗読の声を。それらがしだいに静まり、間遠になり、沈黙の比重が増していくのを私は待っている。
 まだ聞こえる。ピアノの音が。もうほとんどまばらにしか聞こえないが、まだぽつりぽつりと聞こえてくる。朗読者の声も、とぎれがちだが、まだ聞こえる。
 まだ聞こえる。
 それらが完全に聞こえなくなるのを、私は待っている。
 それらが完全に




(おわり)

2015年9月19日土曜日

コンテナ

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   コンテナ

                         水城ゆう

 なかを泳げるほどの濃霧の朝、ぼくらは出発する。
 ぼくらを岸壁から引きはなしたタグボートがはなれていくと、フォグフォーンを一発。ながく尾を引く警告音が港内にひびきわたり、ぼくらは白灯台を右に見ながら外海《そとうみ》へと乗りだす。
 波はない。波高ゼロ。油を流したように凪《な》いだ海面を、濃い霧がなめている。その霧と海面の境界を分けて、ぼくらのコンテナ船五万トンがゆっくりと進んでいく。五万トンの海水が右と左と下へと分けられ、巨大なスクリューによって後方に押しやられる。巨大な質量の移動だが、それは静かにおこなわれる。聞こえるのは低くくぐもったディーゼルエンジンの音と、ひたひたと船腹をなでる水音だ。
 カモメが何匹かついてきて、船のまわりをせわしなく調べる。自分たちに餌を投げあたえる人影がないかどうか、調べているのだ。が、出港時のいそがしい時間に、そんなことをする乗組員はいない。すくなくともぼくらのコンテナ船にはいない。もしいるとしたら、暇を持てあますか、酔いざましにデッキに出てきた客船かフェリーの乗客くらいだろう。
 コンテナ船が沖へ出て、エンジン音が変化すると、カモメたちもあきらめて霧のなかへと去っていく。
 霧もまた、急速に薄れていくようだ。
 陽が射しはじめると、濡れていたコンテナもあっというまに乾いていく。陸地近くでは凪いでいた海面も、沖合に出るとわずかなうねりを見せはじめる。ほとんど揺れはしないが、わずかに平行が傾くと、老朽化したドライコンテナの継ぎ目からノイズミュージックが聞こえはじめる。
 ぎしっ、ぎしっ、かちゃん。
 ぎゅっ、ぎしっ、かちん。
 それぞれのコンテナはセル・ガイドにそって固定されていて、船が揺れても荷崩れの心配はない。積荷も船体そのものも、巨大ハリケーンにも耐えるように作られている。ぼくらは海に出てすでに十五年を経たベテランだけれど、まだまだやれる。現役まっさかりといっていい。
 ぼくら大型コンテナ船は、各地のハブ港に集結したコンテナ貨物をさらに積みかえ、世界をまわる。香港、シンガポール、ドバイ、ハンブルグ、ロッテルダム、ブレーメン、ニューヨーク、ロサンゼルス。地球を何周したことだろう。人々が見たこともないような光景をたくさん見てきた。
 フォークランド諸島の沖合で無数のクジラの群に遭遇したことがある。吹きあげる潮と壮大な合唱で、海がだれのものなのか思い知らされた気がした。
 ペルシャ湾では巨大な空母とそれから発着する戦闘機を見た。彼らは昼となく夜となく働いて、思想信条のことなる人々を殺戮するのに余念がなかった。ぼくらのすぐ上をミサイルが飛びすぎたこともあった。
 冬のノルウェー沖では満天に踊り舞うオーロラに怖れおののいた。それらはときに天使の舞のように、ときには悪魔の牙のように、ぼくらの身体のなかにまではいりこんでくるような気がして、生きたここちがしなかった。
 夏の日本海ではイカ釣り漁船団のまっただ中を通過したこともあった。無数のまばゆい集光灯が、まるでそこに一機の巨大な宇宙船でも着水しているような錯覚を見せていた。
 いま、ぼくらは、霧が晴れ、まばゆい陽光を受けながら、おだやかな南シナ海をすすんでいる。高雄、香港を経由し、いまはシンガポールに航路を取っている。この航路では何度か台風に見舞われた。でもぼくらはそのつど、台風の目が頭上を通過するなかを、五万トンの水を分けながら進んでいった。十二メートルに達しようという波もものともせず乗りこえてきた。五〇メートルを超えるほどの風速でも、きっちりと積みあがったコンテナの位置は一ミリも狂わなかった。
 ぼくらの右のほうからかなりの速度で、おそらく中国籍の漁船がちかづいてくる。大きな漁船でも、何人かの男が船べりで立ち働いているのが見える。これから遠洋に出かけるのだろう。彼らはぼくらの後方をすり抜け、左後方へと遠ざかっていく。漁船がけたてる白い波が静かな海にくっきりと航跡を残す。ぼくらの航跡もまた、黒々とした海面の色をうすくかきまぜて、まっすぐ後ろへと、速力24ノットでのびている。
 コンテナ船の仕事は、入港前と接岸時、そして入港後がピークだ。よく、遠洋航路の船員はいろいろな土地を訪れることができることをうらやましがられることがあるが、実際には入港してものんびり上陸して観光しているような時間はほとんどない。ガントリークレーンによる荷揚げ、荷積み、積み込みのプログラム、コンテナの計数、マニフェストとの付きあわせといった山のような仕事がある。接岸するとほぼ一日がかりで荷揚げと荷積みがおこなわれるが、それでも何百個というコンテナの入れ替えが一日しかかからない。そして乗組員はのんびり上陸を楽しむ時間はほとんどない。
 港を出てしばらくし、点検、データ確認などの作業が終わると、ようやくひと息つける。しばらくは退屈との戦いの日々となる。
 香港を出て半日、ちょうど秋分に差しかかろうという秋の太陽が、いま、西の水平線へと落ちかかっていく。ぼくらはそれを、朝がたに中国の漁船が去っていった方角、左舷後方に見ている。
 左舷後方の水平線近くには、いつの間にか薄い雲がかかっている。たっぷりバターを使ったパイ生地のように層状になっていて、太陽はまさにその層のあいだをくぐり抜けて沈もうとしている。大気圏で光がゆがみ、倍の大きさになった太陽。空中の塵で青色が拡散し、オレンジの火球と化した太陽。オレンジ色は雲と空と、それを映す海面をもそめあげる。
 一瞬たりともとどまらない変化のなかで太陽は水平線へと急速に落ちていき、やがて溶けこむように海に呑みこまれて消える。
 赤の光は空にとどまり、やがて紫から青みを帯び、暗く沈んでいく。光量が急速に減衰し、宇宙の背景があらわれるとともに、星々が姿を見せる。
 ぼくらの船は星空にブリッジを高々と突きあげ、左舷の緑色灯と右舷の赤色灯をほこらしげに輝かせて進みつづける。
 夜がふけると、船員たちは当直と眠れない者を残してほとんどが、それぞれの寝台で寝静まる。当直の航海士は操舵室に立っているが、ぼくらはオートパイロットで航海しているし、なにか障害物があればレーダーが知らせてくれる。当直も四時間の辛抱で、真夜中が来れば交代して自室にもどれる。あるいはしばらく星でも見ようか。今夜はミルキーウェイが見られそうだ。
 と、レーダーに右舷からなにか接近してくるものが映る。船ではない。低く飛ぶ航空機のようだ。旅客機ではない。軍用機、速度からして戦闘機かもしれない。南シナ海は 東シナ海ほどではないにせよ、さまざまな軍事的緊張がある海域で、ぼくらもいろいろな軍事的事象を見てきた。空母や護衛艦、駆逐艦などの艦船はもとより、いまのように航空機も軍用のものを頻繁に見る。浮上した潜水艦が休んでいるのを見たこともある。あれはひょっとしてエンジントラブルで停止していただけだったのかもしれない。
 ぼくら民間船が港と港をつないで人々に物資をとどけているあいだにも、軍用船はあっちへいったりこっちへいったりと、ぼくらみたいに忙しそうにしている。ぼくらコンテナ船が車の部品や、衣服や、コーヒー豆や、缶詰や、パスタや、ワインや、果物や、材木や、冷凍肉や、スパイスや、本や、電気製品を運んでいるあいだにも、彼らはダミーの的になっている廃船に向かって大砲を撃ったり、戦隊を組んで演習したりしている。
 レーダーの機影は、やがて左舷方向に消えていった。
 夜中がちかづいてくる。
 このあたりの緯度だと、この季節でもさそり座がくっきりと前方に視認できる。アンタレスの目玉がひときわ赤い。
 そしてミルキーウェイ。
 それを斜めに横切っていく人工衛星。
 すこし波が出てきている。といっても、一メートルかそこいら。二メートルはない。
 波を切る音が立つ。暗闇でほとんど見えないけれど、航跡はさらにくっきりと白いことだろう。
 ぼくらは闇と黒い海面を切りわけて、力強く進む。
 ぼくらが運ぶのは、さまざまな国の、さまざまな人種の、さまざまな階層の、さまざまな立場の、さまざまな人々のいとなみのための物資。ぼくらを待っている人が、世界中にいる。

2015年8月23日日曜日

薪を割る女、蜜蜂

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   薪を割る女、蜜蜂

                         水城ゆう



 ちょっと億劫な気がして後回しにしていたけれど、今日は陽が高くなってもだいぶ涼しくてすごしやすい、たまっていた薪《まき》割りをいくらかでも片付けよう、と彼女は決める。
 それにしても、今年の夏は異常だった。というより、このところ異常なことが平常になっている。今年はいつまでも気温があがらずに雨ばかり降っていたかと思うと、いきなり暑くなってそれが何日もつづいた。かと思うと、いきなり涼しくなって、まるで一瞬にして夏が終わってしまったみたいだった。だからといって、春が長かったという感じもない。
 いまは秋で、秋が長くなった感じがするかもしれない。冬になってみないとわからないけれど。
 土間に立てかけてある薪割り用の斧を手に取ると、彼女は表に出る。家の前は雑木林で、斜面を降りると谷川に出る。いまも渓流の音が聞こえている。数日前の台風がもたらした雨のせいで、水かさが増している。もっとも、もう濁り水ではないことは、今朝がた確認した。
 家の横手にまわる。そこは畑で、その向こうには村の舗装された道路、ずっと向こうに何軒かの家、そして山並が見える。まだ秋空というより、夏の名残《なごり》の綿雲《わたぐも》が山のいただきの向こうからこちらにゆっくりと流れてくる。
 道路脇の畑の端に、林業組合の源《げん》さんに運んでもらった間伐材が積みあげてある。コナラやブナなどの雑木で、太さもまちまち、材木にはならないような切り株も混ざっている。一輪の手押し車を押していって、手頃な太さの木を積む。それを薪割り場まで運ぶ。
 薪割り場といっても、ひときわ大きくて安定している切り株をひとつ据えてある畑の脇のただの空き地で、割った薪を積みあげておく下屋《げや》に近い。すでにいくらかの薪が積んである場所の、家の角のほうには、みつばちの巣箱がある。今日も巣門を盛んに出入りする羽音が聞こえている。
 手押し車をひっくり返して間伐材をぶちまける。間伐材は源さんがあらかじめ薪にちょうどいい四、五〇センチの長さにカットしてくれている。適当な一本を選び、切り株の上にすえる。太さからいって、このコナラの木からは薪が四、五本、取れるだろう。
 斧を振りかぶり、振りおろす。斧の刃が切り口の中央に食いこみ、そのまま木を一気に縦に割る。小気味のいい乾いた音が谷にひびく。
 やがて六十にもなろうという女手で薪割りなどやっていると、若い連中からびっくりしたような、やや同情が入りまじった視線を向けられることがある。げんに娘の朋子やその一家は、年に一度都会から帰省するたびに、危ないからやめて、怪我したらどうするの、そんな仕事だれかに頼めばいいじゃないの、薪を買うお金に不自由があるわけじゃないでしょう、などという。そもそも、そんな大変な仕事をなんでお母さんがやらなきゃならないの、と。
 大変なんかじゃない。もちろん、大量に割らなきゃならないとなると大変かもしれないけれど、大変なことになる前にやめたり、休んだりする。けっして無理はしない。身体を使う仕事が彼女は好きなのだ。だからつらい思いまでしたくない。
 女には大変な力仕事だろうと思っている者もいる。実際、朋子の夫である婿さんはまだ三十代なかばにもかかわらず、まったく薪割りがうまくできない。子どもたちはなおさらだ。それは力の使い方や、身体の使い方がうまくないだけなのだ。
 たしかにある程度の力は使うけれど、婿さんのような力の使い方はしない。婿さんはやたらと力んで、腕の力で薪をたたき割ろうとする。彼女は腕の力などほんのちょっぴりしか使わない。斧があらぬ方向に飛んでいかないように軽く握っているだけだ。彼女が使うのは、もともと自分のなかにあるもっと強靭な筋力のほうだ。それは五〇キロ以上ある彼女の身体を楽々と運んでいる、彼女の中心部にある筋肉と、体重そのものだ。それを斧の先端に集めれば、薪は軽々と割れる。まったくどこも力む必要はない。
 ぽんぽんとおもしろいように薪が割れるのが楽しくて、まるで初霜の朝、少女が霜柱を踏みくずすのを楽しむようにして、彼女は薪割りをする。
 たちまちひと束の薪ができる。
 つぎの束に取りかかりながら、彼女はふとみつばちのことを思う。この下の黒谷のみつばちは、この夏、五箱あった巣箱が、アカリンダニとスムシにやられて全滅したという。ダニもスムシもみつばちにとっては強敵だが、蜂の群が強ければ全滅するようなことはまずない。彼女のみつばちも黒谷から分封したものだが、いまのところ元気だ。巣のなかにはダニもスムシもいるのかもしれないが、負けずに元気で働いている。
 みつばちの元気がなくなるのは、いろいろな理由がいわれているが、もっとも影響があるのは農薬だ。ここの谷に比べて黒谷は大きな集落で、田んぼも機械化が進んでいる。農薬もきっと最新式のものをたくさんまくのだろう。強い農薬をまかれれば、みつばちに限らず虫たちはたまったものではない。
 谷に虫がいなくなれば、鳥もいなくなる。鳥もけものもいなくなったら、だれが森を作るというのだろう。
 彼女の谷はせまくて、機械をいれにくい。ほとんどが棚田で、ほとんど耕作放棄地だったのが、ここ数年、都会から大学生たちが来て、自然農法とやらで米を作りはじめている。農薬は使わないので安心だ。彼女のみつばちもそのために元気なのかもしれない。
 三束、四束と薪の束を作ってから、彼女はみつばちの巣箱のようすを見に行く。ちょうどこの時間、巣箱の入口には、日の光があたっている。夏には巣箱のなかの温度があがりすぎないように、何匹かのみつばちが巣門にならんで風を送っている光景が見られた。いまは一、二匹がたまにやっているのが見える。
 先週、巣箱を調べたとき、ずっしりと重くなって、順調に蜜がたくわえられているのがわかった。そろそろ採蜜の時期だろう。採蜜の作業は神経と体力を使いなかなか大変だけれど、ここ数年やっていることなので、ひとりでやれないことはない。
 谷でひとりで暮らし、作物を作り、ときにはキノコや山菜を採取し、みつばちを飼う。薪を割り、風呂をわかし、星空をながめながらひとりではいる。みつばちは仲間のような気がしていて、おかげで寂しくはない。
 人生の終わりがどのようになるのか想像できないし、かんがえてもしかたのないことだと思う。一匹のみつばちの生涯も、活動期の働き蜂なら一か月ちょっとしかない。卵から幼虫、蛹になり、成虫になったら、幼虫や女王蜂の世話や、巣作りや掃除の仕事をしたあと、外に出て蜜や花粉を集める仕事をする。
 彼女もまた、いま、薪を割り、野菜を作り、山菜やキノコを摘み、みつばちを育て、森を作る。そこにはなんの栄光もないように見える。でも、本当にそこにはなんの栄光もないのだろうか。
 自分のみつばちたちが元気に働いているのをたしかめると、彼女はもうすこし薪割りを進めておこうと思う。薪割り場にもどり、今度はすこし腕がためされそうなブナの大きな切り株に取りかかる。

2015年7月29日水曜日

今朝の蜜蜂は羽音低く飛ぶ

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   今朝の蜜蜂は羽音低く飛ぶ

                         水城ゆう



 日が出たばかりの畑を、雨滴をためたミゾソバを踏みしめ、柔らかな土の感触に警戒しながら、彼女はゆっくりあるく。目的を持って。まっすぐに。
 ひさしぶりに雨があがった。谷の空気はたっぷりと湿り気をおびている。決然と歩く彼女の影は、くっきりと長く背後へとのびている。
 ふいに耳の至近距離を振動音が通過する。
 ぶうん。
 蜜蜂が一瞬にして通過していくが、すばやくて姿を追うひまもない。
 さらにもう一匹。
 ぶうん。
 うるさいな。
 彼女は口のなかでつぶやく。自分がほんとうにそうは思っていないことを自分でも知っている。しかし彼女はもう一度いう。
 うるさいな。
 蜜蜂にむけていっているのではないことに、すでに気づいている。
 うるさいな、もう。あいつも、あの子も、おかあさんもおとうさんも、それから自分も。自分がいらいらしていることに気づき、そのことでさらにいらいらする。なんでなんでもないのにこんなにいらいらするんだろう、うざいよ、もう、自分。
 ぶうん。
 蜂が飛びさった方角には養蜂箱がならんでいる。一列、二列、東西の方角に長くならんでいる。たぶん三十箱以上ある。べつの畑にもある。山向こうの谷にはもっとある。うちの仕事だ。
 梅雨も終わりに近づき、夏も本格的になると、蜜が取れる花もすくなくなる。幼虫や女王蜂のために、働き蜂たちはたくさん働きたくなっているのかもしれない。
 ならんでいる養蜂箱の一番端から異常はないか点検していく。電気で対策はしているけれど、山からの動物がまれに箱を襲うことがある。あるいは、蜜蜂が病気になったり、ダニやスムシにたかられたりして、被害をこうむることもある。なにか異常があれば、生まれたときから蜜蜂とすごしてきた彼女には、すぐにわかる。だから、朝の見回りは彼女の仕事になっている。
 眠いけれど、朝一番のこの仕事をいやだと思ったことはない。谷の空気を吸い、蜜蜂たちといっしょにいる感じは、彼女を落ち着かせてくれる。しかし、今朝は理由のないいらいらが彼女をわずらわせている。
 いらいらを追いはらおうと、彼女は蜜蜂の点検に集中する。もう花粉を持ち帰ってきて、巣箱にもぐりこんでいく蜜蜂がいる。うしろの両足にくすんだ黄色の花粉だんごをくっつけて帰ってくる。よかった、この子はどこかに花を見つけたんだ。それを仲間に知らせて、みんなが取りに行くことだろう。そしたらこれは、幼虫の体を作るタンパク源になる。
 クラスメートで養蜂の仕事を理解している者はいない。担任の霜島先生だって理解しているとは思えない。
 今年の春、年度が変わったばかりのころ、霜島先生から訊かれた。
「ミツバチが全滅しちゃう病気が世界中で流行しているらしいけど、おまえのところはだいじょうぶなのか?」
 蜂群崩壊症候群というやつで、日本ではまだそれほど大きな問題になっていないけれど、欧米では大問題になっている。ダニ、ウイルス、農薬など、いろいろな原因がさぐられているけれど、まだはっきりとしたことはわかっていない。特定の農薬を糾弾する環境運動家もいるけれど、問題はそれほど単純じゃない、とおとうさんがいっていた。
 霜島先生が心配してくれていることがわかって、そんなことを伝えたのだけれど、うまく伝わったかどうかはわからない。
 クラスメートたちとそんな話はまったくできないし、する気も起こらない。みんな、ゲームかアニメかファッションか、友だちや友だちの家のことや先生たちの噂話か、どうでもいいようなことを一日中熱心にしゃべっている。
 彼女は突然、自分がなんにいらだっているのかわかったような気がする。
 そうだ、あたしはみんなの愚かさにいらだっているんだ。いや、みんなだけじゃない。先生たち大人も、社会全体も、あたし自身も愚かで、なんにもわかっていない。もっといっぱい知りたいのに。もっといろんなことがわかりたいのに。
 日がだいぶのぼった。まだ穂をつけていないススキの葉先には乾ききっていない水滴がキラキラと光っている。その手前を、金色に光った蜜蜂たちがピュンピュンと山に向かって飛んでいく。斜め三〇度くらいの角度で飛びあがり、すぐに見えなくなってしまう。その先の山すその谷川ではアオサギが岩の上から朝食を物色している。
 世界はこんなに美しいのに、美しく見えているだけなのかもしれないと思って、彼女は苦しくなる。
 一番奥の巣箱の前で、彼女は足をとめる。なんとなく養蜂箱のふたをそっと持ちあげてみる。面布は着けていない。なかでは数万匹の蜜蜂が団結しているサインのジュワジュワという羽音をいっせいに立てる。
 異常なし。
 ひたいに一匹のミツバチがコツンとぶつかってきた。
「ごめんごめん。邪魔しちゃったね。すぐに閉めるからね」
 刺されはしないことを彼女はよく知っている。でも、もっともっとミツバチのことを知りたい。おとうさんよりももっとたくさん知りたい。知りたいのはミツバチのことだけじゃない。
 神さま、あたしにこの世の秘密を教えてください。
 祈りながら、彼女はそっと箱のふたを閉める。