2010年1月4日月曜日

アンリ・マティスの七枚の音(2)

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  「アンリ・マティスの七枚の音(2)」 水城雄


 待ち合わせのカフェには、すでに彼がいた。
 ざっくりした麻のジャケットを着て、通りを行く人々をながめていた。
 ロイスを見つけると、いった。
「すまなかったね、仕事中なのに呼び出したりして」
 ロイスはカフェオレを注文した。
 男のジャケットの内ポケットから絵葉書が出てきて、彼女に渡された。“音楽”と同じ緑の丘と青い空。やはり赤い肌の男女が五人、手をつないで踊っている。人体がアラベスク模様を作っている。
「これが最後の一枚ですか」
 ロイスは彼を見た。
「そう。音楽の次は、当然、ダンスだろう?」
「どうしてわたしにこれを?」
「なにかプレゼントしたくてね。といっても、ぼくができるのは、つまらない小説を書くこと。つまらない小説など、きみも読みたくはないだろう。で、好きな絵を旅先から送ることにしたわけだ。ぼくにしてみれば、きみに音楽をプレゼントしたつもりだったんだがね」
「音楽を?」
「マティスの絵で構成された組曲のつもり。そういうふうには感じてもらえなかったかな。七枚の組曲として」
「八枚でしょう。これをいれれば」
「いや、七枚だ。最初の一枚――マティスの写真は、いってみれば、オーケストラのチューニングみたいなものだよ。ほら、演奏の前にオーボエが最初に音を出して、皆が音を合わせるだろう。あれだよ」
 そういって、彼は笑みを浮かべた。いたずらが見つかった子どもの照れかくしのような笑顔。
「あの写真にはぼくもずいぶん助けられたよ。仕事がはかどらないときはあれを見る。きみの仕事はうまくいってる?」
「あまり……」
「そうか。じゃ、あの写真を見ることだね」
「あなたが仕事に行きづまることがあるなんて、考えられないけれど」
「馬鹿いっちゃいけない。あるさ、当然。でもぼくは、あんなものを書きたいわけじゃないんだ」
 一瞬、男の顔に苦渋が浮かんだ。ウェイトレスが運んできたカフェオレを、ロイスは口に運んだ。
「きみはいくつ?」
「二十二です」
「まだ生まれたてだね。生まれていないといってもいいかもしれない。でも、きみの作る音はいい。きみはきっと、ものごとを感じとることを知っている人なんだ。うらやましいよ。きみぐらいの年齢のとき、ぼくはなにも知らなかった。まあ、いまだってそう事情は変わっちゃいないけれど。きみは自分を信じて、そのまままっすぐ進めばいい。ストレートに、シンプルに」
 男はコーヒーカップを口に運び、眉をしかめた。
 ロイスは、彼のことを誤解していたかもしれない、と思った。
「いいことを教えよう。ものごとには必ず、いつくかの側面がある。人もいくつもの側面を持っている。けっして人に見せない側面も、だれだって持っている」
「あなたも?」
「当然。でも、ひとつ、きみに見せてあげた」
 ふいに彼が立ちあがった。
「悪かったね、時間をさかせてしまって。きみの仕事がはかどることを祈ってるよ。ファンのひとりとしてね。今日は会えてよかった」
 また子どもみたいな笑顔になったと思うと、ウインクされた。
 ちょっとあっけに取られた気分で、ロイスは男の後ろ姿を見送った。
 彼女はもうしばらくそこにいて、カフォオレを半分飲んだ。
 帰ろうと彼からもらったダンスの絵を取ると、その下にふたり分のコーヒー代がきちんと置いてあった。
 外は少し風が出て、薄日が差しはじめている。
(おわり)

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