2010年1月31日日曜日

I'm Glad There Is You

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #8 -----

  「I'm Glad There Is You」 水城雄


 聞いて。
 今日はひどい一日だった。ほんとにひどかった。こんなひどい日はめったにないわ。
 目覚まし時計が鳴らなかった。
 知ってるでしょう? わたし、古い携帯電話のアラームを目覚まし代わりに使っているのよ。それが鳴らなかった。バッテリーがもうだめになってしまったらしい。
 あわててベッドから飛び起きたら、足首をひねってしまった。見て、少し腫れてるでしょう、この右足のところ。
 そのせいかどうか、バスを降りるとき転んで、サンダルのストラップを切ってしまった。恥ずかしかったわ。膝小僧もこんなにすりむいてしまった。
 当然、会社は遅刻。なぜ遅れたのか話したら、上司からはばか呼ばわりされてしまった。そこまでいうことないと思う。
 でも、ほんとにばかみたいな失敗をやってしまった。まちがえてどうでもいい書類を何百枚もコピーしちゃうし、大事な書類のほうはシュレッダーに入れてしまった。おかげで仕事はやりなおし。上司からはまたばか呼ばわりされた。
 昼に食べたサンドイッチには虫が入っていたし、マニュキュアははがれてしまうし、銀行は混んでいるし、生理は重いし、ここに来る途中には変な男に付きまとわれるし。
 こわかった。
 でもいいの。
 あなたがここにいてくれて、本当によかった。
 あなた以外、なにもいらない。
 ここに来れて、ほんとにうれしい。
 しあわせ。

2010年1月30日土曜日

群読シナリオ「前略・な・だ・早々」(3)

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----- 群読のためのシナリオ -----

  群読シナリオ「前略・な・だ・早々」(3)

   原作:夏目漱石・太宰治/構成:水城雄


  B、集団から抜け出る。

B「こんな夢を見た。腕組をして枕元に坐っていると、仰向に寝た女が、静かな
 声でもう死にますと云う」
E「女は長い髪を枕に敷いて、輪郭の柔らかな瓜実顔をその中に横たえている」
B「真白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、唇の色は無論赤い。とうて
 い死にそうには見えない。しかし女は静かな声で、もう死にますと判然云った。
 自分も確にこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、と上か
 ら覗き込むようにして聞いて見た。死にますとも、と云いながら、女はぱっちり
 と眼を開けた」
E「大きな潤のある眼で、長い睫に包まれた中は、ただ一面に真黒であった。そ
 の真黒な眸の奥に、自分の姿が鮮に浮かんでいる」
B「自分は透き徹るほど深く見えるこの黒眼の色沢を眺めて、これでも死ぬのか
 と思った。それで、ねんごろに枕の傍へ口を付けて、死ぬんじゃなかろうね、大
 丈夫だろうね、とまた聞き返した。すると女は黒い眼を眠そうにたまま、やっぱ
 り静かな声で、でも、死ぬんですもの、仕方がないわと云った」
D「じゃ、私の顔が見えるかい」
B「と一心に聞くと」
C・野々宮「見えるかいって、そら、そこに、写ってるじゃありませんか」
B「と、にこりと笑って見せた。自分は黙って、顔を枕から離した。腕組をしな
 がら、どうしても死ぬのかなと思った。しばらくして、女がまたこう云った」
E「死んだら、埋めて下さい。大きな真珠貝で穴を掘って。そうして天から落ち
 て来る星の破片(かけ)を墓標に置いて下さい。そうして墓の傍に待っていて下
 さい。また逢いに来ますから」
B「自分は、いつ逢いに来るかねと聞いた」

  C、出る。

C「日が出るでしょう」

  D、出る。

C・D「それから日が沈むでしょう」
C・D・E「それからまた出るでしょう」
C・D・E・野々宮「そうしてまた沈むでしょう」
B「赤い日が東から西へ、東から西へと落ちて行くうちに、あなた、待っていら
 れますか。自分は黙って首肯いた。女は静かな調子を一段張り上げて、「百年待
 っていて下さい」と思い切った声で云った。「百年、私の墓の傍(そば)に坐っ
 て待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」自分はただ待っていると答えた。
 すると、黒い眸のなかに鮮に見えた自分の姿が、ぼうっと崩れて来た。静かな水
 が動いて写る影を乱したように、流れ出したと思ったら、女の眼がぱちりと閉じ
 た。長い睫の間から涙が頬へ垂れた」
全員「もう死んでいた」

  全員(野々宮も)、その場にうずくまる。
  D、立ちあがる。

D「結局、僕の死は、自然死です。人は、思想だけでは、死ねるものでは無いん
 ですから」

  野々宮、立ちあがる。

野々宮「百年はもう来ていたんだなとこの時始めて気がついた」
D「それから、一つ、とてもてれくさいお願いがあります。ママのかたみの麻の
 着物。あれを姉さんが、直治が来年の夏に着るようにと縫い直して下さったでし
 ょう。あの着物を、僕の棺にいれて下さい。僕、着たかったんです。夜が明けて
 来ました。永いこと苦労をおかけしました。さようなら。ゆうべのお酒の酔いは、
 すっかり醒めています。僕は、素面で死ぬんです。もういちど、さようなら。姉
 さん。僕は、貴族です」

  D、うずくまる。

野々宮「はっと思った。右の手をすぐ短刀にかけた。時計が二つ目をチーンと打っ
 た」

  E、立ちあがる。

E「彼は千代子という女性の口を通して幼児の死を聞いた」
野々宮「おれは人殺であったんだなと始めて気がついた途端に、背中の子が急に石
 地蔵のように重くなった」
E「千代子によって叙せられた「死」は、彼が世間並に想像したものと違って、
 美くしい画を見るようなところに、彼の快感を惹いた。けれどもその快感のうち
 には涙が交っていた。苦痛を逃れるために已を得ず流れるよりも、悲哀をできる
 だけ長く抱いていたい意味から出る涙が交っていた。彼は独身ものであった。小
 児に対する同情は極めて乏しかった。それでも美くしいものが美くしく死んで美
 くしく葬られるのは憐れであった。彼は雛祭の宵に生れた女の子の運命を、あた
 かも御雛様のそれのごとく可憐に聞いた」

  E、うずくまる。

野々宮「こんな悲い話を、夢の中で母から聞いた」

  B、立ちあがる。

B「しかし私は今その要求を果たしました。もう何にもする事はありません。こ
 の手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもうこの世にはいないでしょう。とく
 に死んでいるでしょう。私は私の過去を善悪ともに他の参考に供するつもりです。
 しかし妻だけはたった一人の例外だと承知して下さい。私は妻には何にも知らせ
 たくないのです。妻が己れの過去に対してもつ記憶を、なるべく純白に保存して
 おいてやりたいのが私の唯一の希望なのですから、私が死んだ後でも、妻が生き
 ている以上は、あなた限りに打ち明けられた私の秘密として、すべてを腹の中に
 しまっておいて下さい」

  B、うずくまる。
  C、立ちあがる。

C「「泣きましたか?」「いいえ、泣くというより、……だめね、人間も、ああ
 なっては、もう駄目ね」「それから十年、とすると、もう亡くなっているかも知
 れないね。これは、あなたへのお礼のつもりで送ってよこしたのでしょう。多少、
 誇張して書いているようなところもあるけど、しかし、あなたも、相当ひどい被
 害をこうむったようですね。もし、これが全部事実だったら、そうして僕がこの
 ひとの友人だったら、やっぱり脳病院に連れて行きたくなったかも知れない」
「あのひとのお父さんが悪いのですよ」何気なさそうに、そう言った。「私たちの
 知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まな
 ければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした」
野々宮「けれども爺さんは、とうとう上がって来なかった。庄太郎は助かるまい。
 パナマは健さんのものだろう」

  Cも野々宮もうずくまる。
  全員、ゆっくり立ちあがり、客席に向かって一列にならぶ。

B「吾輩は猫である」
C「恥の多い生涯を送って来ました」
B「名前はまだ無い」
C「自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです」
D「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく
 に人の世は住みにくい」

  礼。
  音楽、終わり。

  終わり。

2010年1月29日金曜日

群読シナリオ「前略・な・だ・早々」(2)

(C)2010 by MIZUKI Yuu All rights reserved
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----- 群読のためのシナリオ -----

  群読シナリオ「前略・な・だ・早々」(2)

   原作:夏目漱石・太宰治/構成:水城雄


  音楽演奏。
  四人、その場でゆっくりと回転する。
  回転、ストップ。

B「私《わたくし》はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生
 と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚かる遠慮というよりも、その
 方が私にとって自然だからである。私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ
「先生」といいたくなる。筆を執っても心持は同じ事である。よそよそしい頭文字
 などはとても使う気にならない」
D「朝、食堂でスウプを一さじ、すっと吸ってお母さまが、「あ」」
B「私がその掛茶屋で先生を見た時は、先生がちょうど着物を脱いでこれから海
 へ入ろうとするところであった」
D「と幽《かす》かな叫び声をお挙げになった」
B「私はその時反対に濡れた身体を風に吹かして水から上がって来た。二人の間
 には目を遮る幾多の黒い頭が動いていた。特別の事情のない限り、私はついに先
 生を見逃したかも知れなかった。それほど浜辺が混雑し、それほど私の頭が放漫
 であったにもかかわらず、私がすぐ先生を見付け出したのは、先生が一人の西洋
 人を伴れていたからである」
D「「髪の毛?」スウプに何か、イヤなものでも入っていたのかしら、と思った。
「いいえ」お母さまは、何事も無かったように、またひらりと一さじ、スウプをお
 口に流し込み、すましてお顔を横に向け、お勝手の窓の、満開の山桜に視線を送
 り、そうしてお顔を横に向けたまま、またひらりと一さじ、スウプを小さなお唇
 のあいだに滑り込ませた。ヒラリ、という形容は、お母さまの場合、決して誇張
 では無い。婦人雑誌などに出ているお食事のいただき方などとは、てんでまるで、
 違っていらっしゃる。弟の直治《なおじ》がいつか、お酒を飲みながら、姉の私
 に向ってこう言った事がある」
C「僕も画くよ。お化けの絵を画くよ。地獄の馬を、画くよ」
D「爵位があるから、貴族だというわけにはいかないんだぜ。爵位が無くても、
 天爵というものを持っている立派な貴族のひともあるし、おれたちのように爵位
 だけは持っていても、貴族どころか、賤民にちかいのもいる。岩島なんてのはあ
 んなのは、まったく、新宿の遊廓の客引き番頭よりも、もっとげびてる感じじゃ
 ねえか」
C「自分はヒラメの家を出て、新宿まで歩き、懐中の本を売り、そうして、やっ
 ぱり途方にくれてしまいました。自分は、皆にあいそがいいかわりに、「友情」
 というものを、いちども実感した事が無く、堀木のような遊び友達は別として、
 いっさいの附き合いは、ただ苦痛を覚えるばかりで、その苦痛をもみほぐそうと
 して懸命にお道化を演じて、かえって、へとへとになり、わずかに知合っている
 ひとの顔を、それに似た顔をさえ、往来などで見掛けても、ぎょっとして、一瞬、
 めまいするほどの不快な戦慄に襲われる有様で、人に好かれる事は知っていても、
 人を愛する能力に於《お》いては欠けているところがあるようでした。(もっと
 も、自分は、世の中の人間にだって、果して、「愛」の能力があるのかどうか、
 たいへん疑問に思っています)そのような自分に、所謂「親友」など出来る筈は
 無く、そのうえ自分には、「訪問《ヴィジット》」の能力さえ無かったのです。
 他人の家の門は、自分にとって、あの神曲の地獄の門以上に薄気味わるく、その
 門の奥には、おそろしい竜みたいな生臭い奇獣がうごめいている気配を、誇張で
 なしに、実感せられていたのです」

  まるでビデオのリプレイのように。

B「吾輩は猫である」
C「恥の多い生涯を送って来ました」
B「名前はまだ無い」
C「自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです」
D「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく
 に人の世は住みにくい」

  以下の途中から、野々宮が出てきて、全員のロープをほどいていく。
  ほどき終えたら、元の位置に戻る。

B「ところへ知らん人が突然あらわれた。唐辛子の干してある家の陰から出て、
 いつのまにか川を向こうへ渡ったものとみえる。二人のすわっている方へだんだ
 ん近づいて来る。洋服を着て髯をはやして、年輩からいうと広田先生くらいな男
 である。この男が二人の前へ来た時、顔をぐるりと向け直して、正面から三四郎
 と美禰子をにらめつけた。その目のうちには明らかに憎悪の色がある。三四郎は
 じっとすわっていにくいほどな束縛を感じた。男はやがて行き過ぎた。その後影
 を見送りながら、三四郎は」
野々宮「広田先生や野々宮さんはさぞあとでぼくらを捜したでしょう」
B「とはじめて気がついたように言った。美禰子はむしろ冷やかである」
E「なに大丈夫よ。大きな迷子ですもの」
野々宮「迷子だから捜したでしょう」
B「と三四郎はやはり前説を主張した。すると美禰子は、なお冷やかな調子で」
E「責任をのがれたがる人だから、ちょうどいいでしょう」
野々宮「だれが? 広田先生がですか」
B「美禰子は答えなかった」
野々宮「野々宮さんがですか」
B「美禰子はやっぱり答えなかった」
野々宮「もう気分はよくなりましたか。よくなったら、そろそろ帰りましょうか」
B「美禰子は三四郎を見た。三四郎は上げかけた腰をまた草の上におろした。そ
 の時三四郎はこの女にはとてもかなわないような気がどこかでした。同時に自分
 の腹を見抜かれたという自覚に伴なう一種の屈辱をかすかに感じた」
E「迷子」
B「女は三四郎を見たままでこの一言を繰り返した。三四郎は答えなかった」
E「迷子の英訳を知っていらしって」
B「三四郎は知るとも、知らぬとも言いえぬほどに、この問を予期していなかっ
 た」
E「教えてあげましょうか」
野々宮「ええ」

  E、集団から抜け出る。

E「ストレイ・シープ。わかって?」

  全員、ストップモーション。
  短く音楽演奏。

C「けれども、その頃、自分に酒を止めよ、とすすめる処女がいました。「い
 けないわ、毎日、お昼から、酔っていらっしゃる」バアの向いの、小さい煙草
 屋の十七、八の娘でした。ヨシちゃんと言い、色の白い、八重歯のある子でし
 た。自分が、煙草を買いに行くたびに、笑って忠告するのでした。「なぜ、い
 けないんだ。どうして悪いんだ。あるだけの酒をのんで、人の子よ、憎悪を消
 せ消せ消せ、ってね、むかしペルシャのね、まあよそう、悲しみ疲れたるハー
 トに希望を持ち来すは、ただ微醺《びくん》をもたらす玉杯なれ、ってね。わ
 かるかい」「わからない」「この野郎。キスしてやるぞ」「してよ」」
D「この世にまたと無いくらいに、とても、とても美しい顔のように思われ、
 恋があらたによみがえって来たようで胸がときめき、そのひとの髪を撫でなが
 ら、私のほうからキスをした」

2010年1月28日木曜日

群読シナリオ「前略・な・だ・早々」(1)

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----- 群読のためのシナリオ -----

  群読シナリオ「前略・な・だ・早々」(1)

   原作:夏目漱石・太宰治/構成:水城雄


  照明、落とし。最小限まで。
  演奏陣二人、板付き。音楽、先行。
  照明、第一段階にアップ。
  控えから五人が出てくる。全員喪服。ただし髪は「喪」とは不釣り合いに鮮や
  かに飾っている。
  先頭、A。ロープで胸の上を縛られた四人(BCDE)を連れて出てくる。
  全員、所定の位置へ。
  音楽、変化。

  照明、第二段階にアップ。
  以下、まるでひとつの小説のように調子を合わせて。

B「吾輩は猫である」
C「恥の多い生涯を送って来ました」
B「名前はまだ無い」
C「自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです」
D「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく
 に人の世は住みにくい」

  以下、たたみかけるように。

E「敬太郎はそれほど験の見えないこの間からの運動と奔走に少し厭気が注して
 来た」
D「人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りに
 ちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、
 越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世
 よりもなお住みにくかろう」

  音楽、変化。
  以下、E、怒り表現にて。

E「彼は今日まで、俗にいう下町生活に昵懇《なじみ》も趣味も有《も》ち得な
 い男であった。時たま日本橋の裏通りなどを通って、身を横にしなければ潜《く
 ぐ》れない格子戸だの、三和土の上から訳もなくぶら下がっている鉄灯籠だの、
 上り框の下を張り詰めた綺麗に光る竹だの、杉だか何だか日光が透って赤く見え
 るほど薄っぺらな障子の腰だのを眼にするたびに、いかにもせせこましそうな心
 持になる。こう万事がきちりと小さく整のってかつ光っていられては窮屈でたま
 らないと思う。これほど小ぢんまりと几帳面に暮らして行く彼らは、おそらく食
 後に使う楊枝の削り方まで気にかけているのではなかろうかと考える。そうして
 それがことごとく伝説的の法則に支配されて、ちょうど彼らの用いる煙草盆のよ
 うに、先祖代々順々に拭き込まれた習慣を笠に、恐るべく光っているのだろうと
 推察する。須永の家へ行って、用もない松へ大事そうな雪除をした所や、狭い庭
 を馬鹿丁寧に枯松葉で敷きつめた景色などを見る時ですら、彼は繊細な江戸式の
 開花の懐に、ぽうと育った若旦那を聯想しない訳に行かなかった。第一須永が角
 帯をきゅうと締めてきちりと坐る事からが彼には変であった」

  まるでビデオのリプレイのように。

B「吾輩は猫である」
C「恥の多い生涯を送って来ました」
B「名前はまだ無い」
C「自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです」
D「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく
 に人の世は住みにくい」

  以下、E、悲しみ表現にて。

E「そこへ長唄の好きだとかいう御母さんが時々出て来て、滑っこい癖にアクセ
 ントの強い言葉で、舌触の好い愛嬌を振りかけてくれる折などは、昔から重詰に
 して蔵の二階へしまっておいたものを、今取り出して来たという風に、出来合以
 上の旨さがあるので、紋切形とは無論思わないけれども、幾代もかかって辞令の
 練習を積んだ巧みが、その底に潜んでいるとしか受取れなかった」

野々宮「「姉さんもう少しだから我慢なさい。今に女中が灯を持って来るでしょう
 から」自分はこう云って、例の見当から嫂の声が自分の鼓膜に響いてくるのを暗
 に予期していた。すると彼女は何事をも答えなかった。それが漆に似た暗闇の威
 力で、細い女の声さえ通らないように思われるのが、自分には多少無気味であっ
 た。しまいに自分の傍にたしかに坐っているべきはずの嫂の存在が気にかかり出
 した。
B「吾輩は御馳走も食わないから別段肥りもしないが、まずまず健康で跛にもな
 らずにその日その日を暮している。鼠は決して取らない。おさんは未(いま)だ
 に嫌いである。名前はまだつけてくれないが、欲をいっても際限がないから生涯
 この教師の家で無名の猫で終るつもりだ。
野々宮「「姉さん」
 嫂はまだ黙っていた。自分は電気灯の消えない前、自分の向うに坐っていた嫂の
 姿を、想像で適当の距離に描き出した。そうしてそれを便りにまた「姉さん」と
 呼んだ。
「何よ」
 彼女の答は何だか蒼蠅そうであった。
「いるんですか」
「いるわあなた。人間ですもの。嘘だと思うならここへ来て手で障って御覧なさい」
 自分は手捜りに捜り寄って見たい気がした。けれどもそれほどの度胸がなかった。
B「吾輩は険呑になったから少し傍を離れる。「その朗読会さ。せんだってトチ
 メンボーを御馳走した時にね。その話しが出たよ。何でも第二回は知名の文士を
 招待して大会をやるつもりだから、先生にも是非御臨席を願いたいって。それか
 ら僕が今度も近松の世話物をやるつもりかいと聞くと、いえこの次はずっと新し
 い者を撰んで金色夜叉にしましたと云うから、君にゃ何の役が当ってるかと聞い
 たら私は御宮ですといったのさ」
野々宮「そのうち彼女の坐っている見当で女帯の擦れる音がした。
「姉さん何かしているんですか」と聞いた。
「ええ」
「何をしているんですか」と再び聞いた。
「先刻(さっき)下女が浴衣を持って来たから、着換えようと思って、今帯を解い
 ているところです」と嫂が答えた。
 自分が暗闇で帯の音を聞いているうちに、下女は古風な蝋燭を点けて縁側伝いに
 持って来た。そうしてそれを座敷の床の横にある机の上に立てた。蝋燭の焔がち
 らちら右左へ揺れるので、黒い柱や煤けた天井はもちろん、灯の勢の及ぶ限りは、
 穏かならぬ薄暗い光にどよめいて、自分の心を淋しく焦立たせた。ことさら床に
 掛けた軸と、その前に活けてある花とが、気味の悪いほど目立って蝋燭の灯の影
 響を受けた」

2010年1月27日水曜日

Hold Me

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #12 -----

  「Hold Me」 水城雄


 汗ばんだあなたの腕が冷たかったので、わたしは尋ねた。
「寒くないの?」
 するとあなたはわたしの肩を抱いていった。
「寒くないよ。きみは?」
「だいじょうぶ」
 と、わたしは答えた。
 わたしは右腕を上にのばして、枕のように頭をその上に乗せていた。その腕を引きよせ、あなたはわたしの身体を腕のなかに抱いた。わたしは自分の腕をさげ、てのひらであなたの胸に触れた。
 あなたの胸もやはり汗ばんで、冷たかった。
 あなたの指がわたしの背中に触れ、なでていく。髪に触れ、そっとなでていく。
 テレビではまたテロと戦争のニュースを告げていた。また大勢の人が傷つき、大勢の人が憎しみあう。
 あなたが身体を起こした。わたしはあなたを求めて腕をのばした。
 しばらくしてもどってきたあなたの手には、冷たい飲み物の入ったコップがあった。わたしはそれを少し飲み、あなたにも飲ませたいと思った。
 だれもが知っているこの気持ち。
 でも、わたしも前の人のとき、この気持ちを失い、憎しみが生まれた。あなたにもまた、前のときのように憎しみを抱くときが来るのだろうか。
 嫌だ。
「それは嫌」
 わたしが声に出していうと、あなたは「なに?」と問いながら、わたしの身体を腕のなかにすっぽりと抱きしめた。

2010年1月26日火曜日

One Sweet Way

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #18 -----

  「One Sweet Way」 水城雄


 隣のレジのアルバイト女性がこちらを見て、それから男性アルバイトのわき腹をすばやくつついた。
 あ、気づかれたかな、と彼女は思った。
 彼女の前には男性客がひとり。弁当とスポーツドリンクを買おうとしている。彼女のレジかごのなかには、サンドイッチと紅茶のペットボトルがひとつずつ。
 昼休み。彼女はいつもこのコンビニに来て、昼食を買う。その外国人のアルバイト学生がここで働くようになったのは、いつごろからだっけ。つたない日本語、つぶらな瞳。仕事場ではついぞ見ることのない無垢な笑顔。
 右から左へ書類仕事をこなし、同僚とあたりさわりのない話をする。ときには飲み会と称して、セクハラぎりぎりの上司のジョークに付きあわされる。
 部屋に帰ってもひとり。コンビニ弁当とテレビドラマ、ケータイメールで時間をつぶす。
 彼とは四か月前に別れた。
 会社の近くのコンビニにその外国人アルバイトが働くようになったのは、そのあとのことだ。
 男性客の支払いが終わって、彼女の番になった。
 かごをカウンターに置く。
「いらっしゃいませ」
 つたない日本語。
 また横からつつかれた。彼の顔がまっ赤になる。彼も彼女のことを意識しているらしい。それとも、ただからかわれて恥ずかしがっているだけ?
 彼の分厚い手が品物を袋に入れ、代金を受け取り、釣りを彼女に渡す。
「ありがと」
 彼女がいうと、彼の顔がさらに赤くなった。

2010年1月25日月曜日

コーヒー

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----- Urban Cruising #27 -----

  「コーヒー」 水城雄


 アルバイトの学生にカードを渡すと、
「コーヒーをいかがですか」
 とたずねられた。
 それも悪くはない。ついでに、洗車もしてもらうことにしよう。みぞれあがりの道を走ってきた車は、泥だらけだ。

 スタンドの事務所の女性が、紙コップにはいったコーヒーを渡してくれた。
 湯気を立てるコーヒーをひと口すすってから、あけはなった入口から事務所にはいった。
 コーヒーはインスタントではないようだ。なかなかうまい。
「昨日からサービスしてるんですよ、それ」
 と事務員がいった。
「コーヒーメーカーをいれたんです。ほら、これ」
 わざわざ、事務所の奥にあるコーヒーメーカーを教えてくれた。
 業務用のものらしく、縦一メートルはあろうかというフィリップスの大きなコーヒーメーカーが、そこに置かれていた。
「なるほど。こりゃあ、いいね。身体が暖まるよ」
 わたしは世辞抜きにそうこたえ、ゴウゴウと音を立てている石油ストーヴに手をかざした。
 ガラス越しに、洗車機をくぐろうとしているわたしの車が見える。
 コーヒーをすすりながら、今日なんばいめのコーヒーなんだろうか、と考えた。
 比較的よくコーヒーを飲むほうだろう。朝起きて一杯。朝食をすませて一杯。事務所にはいって一杯。仕事中もしばしば飲む。
 外回りのときも、商談の相手から出されたコーヒーを飲むし、ひとりで息抜きにはいった喫茶店でも飲む。
 多い日には、十杯近く飲むのではなかろうか。
 コーヒーは好きだ。
 胃が丈夫でよかった、とわたしは思う。

 洗車機がしぶきをあげながら、わたしの車を洗っている。
 便利になったものだ。
 学生時代、わたしもガソリンスタンドでアルバイトをしていたことがあるが、洗車機というのはまだそれほど普及していなかった。今日のように寒い日には、洗車の仕事があるとよほどこたえたものだ。
 そういうときのコーヒー一杯というのは、じつにありがたかった。
 考えてみれば、頻繁にコーヒーを飲むようになったのは、大学にはいってからだろう。大学にはいり、親や教師の目を気にすることなく喫茶店に出入りできるようになってから、毎日のようにコーヒーを飲むようになったのだ。
 そのころはまだ、コーヒーに砂糖とミルクをいれていた。
 喫茶店にはいる。席につく。タバコに火をつける。
 ウェイトレスが来るのを待ち、「ブレンド」とぶっきらぼうにつげる。
 週刊誌を広げて、コーヒーが来るのを待つ。
 コーヒーが運ばれてくると、砂糖を一杯半いれてていねいにかきまぜる。グラニュー糖が完全に溶けたのを確認すると、今度は慎重にフレッシュ・ミルクをカップのふちから注ぎいれる。ミルクが褐色の液体の表面に不可思議な模様を描いて広がっていくのを見るのが、楽しかった。
 そういえば、あの頃はまだ、薄汚れたジャズ喫茶が残っていた。ばかでかいスピーカー。プチプチという雑音を立てるすり切れたレコード。タバコの煙。ちらしで埋めつくされた壁。無愛想な店員。
 コーヒー一杯でなん時間もねばったものだ。
 あの店はいったい、どこへ行ってしまったのだろうか。

 洗車機が空気を吹きつけてわたしの車を乾燥させている。
 わたしはそれをぼんやりながめながら、学生時代のことを思いだしている。
 学生の街特有の喫茶店が、あのころはたくさんあった。〈しあんくれーる〉〈鳥類図鑑〉〈ほんやら堂〉〈マキ〉〈パブロ〉〈サンタクロース〉〈たくたく〉〈拾得〉〈バナナ・フィッシュ〉〈グリーン・スポット〉〈リンゴ〉〈新進堂〉。
 そんな店が次々となくなり、あるいはこぎれいに改装されていったのと、学生運動が影をひそめていったのとは、ほとんど時を同じくしているように思える。
 わたしは、大学の入学式で、自治会と称する連中が角棒を持って演壇を占拠し、受験戦争をくぐり抜けてやってきたばかりのわれわれをびっくりさせたことを、おぼえている。学生食堂でBランチを食べていると、突然プラカードをかかげ、拡声器でなにやらスローガンを叫びながら室内をぐるりと回っていった連中のことをおぼえている。また、2年の夏には、田舎から帰ったわれわれを正門に築きあげられたバリケードが待っていたことをおぼえている。
 そういったものが次第に影をひそめ、うさん臭い喫茶店がこぎれいになっていくと同時に、学生たちもこぎれいになり、講義にはまじめに出席し、また裕福になっていったように思える。
 そういうわたしも、いまではこぎれいな乗用車を乗りまわし、洗車会員になり、月に三度も四度も自分の手を汚さずに車を洗ってもらえる、というわけだ。
「終わりましたよ、洗車。中もやっときますか?」
 アルバイトの学生がそういった。
「いや、中はいい」
 わたしは空になったコーヒーカップを握りつぶし、ゴミ箱にほうりこむと、事務所をでた。

2010年1月24日日曜日

Straighten Up

(C)2010 by MIZUKI Yuu All rights reserved
Authorized by the author

----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #19 -----

  「Straighten Up」 水城雄


 ちゅーちゃん、ちゅーちゃん。
 そ、か。ちゅーちゃんはいない。いないんだ。あたしの大事な大事な猫のちゅーちゃん。仕事に集中するために、ママに預けちゃった。ごめんね、ちゅーちゃん。
 仕事。仕事。あたしの仕事。
 あたしの仕事は、女優。変な響き。じょ・ゆ・う。変な仕事。人前でお芝居して、お金をもらう。ううん、お金をもらえればラッキー。お芝居がお金になることなんかめったにない。だから、あたし自身とちゅーちゃんのご飯代は、アルバイトで稼いでいる。あたしとちゅーちゃんの住むおうち代も。
 事務員のアルバイト。事務員の服を着て、事務のお仕事。
 でも、あたしのほんとの仕事は女優。知らない人の前でお芝居することがあたしの仕事。というより、それがあたしの生き方。演じてないあたしは、ぬいぐるみと同じ。かわいいけれど、命は入っていない。
 演出のセンセがあたしに新しいホンをくれた。命が吹きこまれたあたし。あたしは立ちあがる。ひとりで。かわいそうなちゅーちゃんはあたしに捨てられる。
 ううん、捨てたんじゃない。お願いだからあたしにたくさん生きさせて。だから、少しだけママのところにいて。あたしが迎えに行くまでがまんして待っていて。かしこいちゅーちゃんなら、あたしのいまの気持ち、わかるでしょ?
 あたし、気づいたの。ちゅーちゃんがいると甘えて、気になって、仕事に集中できないんだって。あたしの仕事はキーを叩いてメールを書いたり、数字を伝票から伝票に書き移したり、品物を包んでつり銭とレシートを渡すようなことじゃない。あたしの仕事はあたしという身体とこころが必要とされる。いまはちゅーちゃんもオトコも忘れて、あたしはあたしの仕事にまっしぐらに入っていく。
 あたしはあたしの中に立ちあがる。まっすぐに。
 この仕事のためなら、あたし、死んだっていい。神様、あたしの命を全部差し上げます。だから、あたしにいい仕事をさせてください。おいしいものも、楽しいことも、気持ちいいことも、きれいな服も、イケメンのオトコも、なにもいりませんから、あたしの全部で演じさせてください。
 ごめんね、ちゅーちゃん。

2010年1月23日土曜日

Someone To Watch Over Me

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----- Jazz Story #35 -----

  「Someone To Watch Over Me」 水城雄


 どうやら場所を間違えてしまったらしい。
 私はひとり、ポツンと広い講堂の脇で立ちつくしてしまった。運動場のほうから入ればすぐにわかるといわれたのに、だれもいない。なにもやっていない。
 彼女の中学生の息子が、弁論大会に出るという。血はつながっていないが、父親として見に行ってやってほしいと頼まれた。しかし、彼のほうもまだ「おとうさん」と呼べずにいる。
 耳をすませば、たしかにどこか離れたところから生徒たちの声が聞こえてきた。どこかこことは別の場所で、弁論大会はおこなわれているらしい。
 この講堂から行けるだろうか。
 私は靴を脱いで講堂に入った。木の床がひんやりと冷たい。
 なつかしい感じがした。もう30年以上も昔、私もこんな学校に通っていた。
 目の前をふと、セピア色の風景がよぎる。よぎった思い出に誘われて私が目を向けたのは、講堂の横にある音楽教室だった。扉が開いていて、グランドピアノが置かれているのが見えた。
 私の足がそちらに向いた。
 思えば私も、中学時代、合唱コンクールの伴奏をしてほめられたことが忘れられず、音楽の仕事に進んでいったのだ。
 どことなくカビくさい音楽教室に入り、ピアノに近づいた。
 蓋に鍵はかかっていなかった。開くと、黄ばんだ鍵盤が見えた。
 指でなぞってみる。
 と、教室の入口から声がした。
「ピアノ、弾くんですか?」
 私の義理の息子とおなじ年くらいの女の子が、首をかしげて立っていた。

 彼女と知り合って7年。その間に、彼女の息子は小学生から中学生になった。
 彼も音楽が好きらしい。しかし、私の知らない流行歌手ばかり聴いている。
 私のライブに一度だけ、彼女といっしょに来てくれたことがある。まだ小学生のころのことだった。しかし、それ以来、一度も来ていない。
 私はピアノに座った。
 中学生のころ、私はどんな音楽を聴いていたのだろうか。
 女の子が近づいてきて、ピアノの横に立った。私は彼女に聞いてみた。
「なにを弾いてあげましょうか」
 それが癖なのか、女の子はふたたび首をかしげた。
「そうですね。椰子の実の歌は弾けますか?」
「名も知らぬ……というやつですか」
「はい」
「弾いてみましょう」
 私は弾いた。古い鍵盤は軽く、しかしアクションは重く、弾きにくかった。
ゆっくりとコードを考えながら弾いた。
 弾き終えると、女の子は音のない拍手をくれた。
「お上手なんですね」
「仕事だから」
 私は義理の息子の名前を出して、知っているかと聞いてみた。
「知っています。もうすぐ弁論することになってます。わたしも聞きたいの」
「いっしょに行きましょう」
「はい。おとうさん、ですか?」
 私はちょっとためらってから、うなずいた。
「はい、おとうさんなんです」
 女の子が先に立って会場まで案内してくれた。女の子の髪からは、いいにおいがした。
 息子もきっと、この子が好きなんじゃないかな、と私は思った。

2010年1月22日金曜日

親知らず

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----- Urban Cruising #33 -----

  「親知らず」 水城雄


 親知らずとはうまいことをいったものだ。
 なるほどねえ、こんな歳になってから生えはじめ、歯グキを押しあげてはシクシクと痛むなんて。
 切ないような、それでいてなつかしいような感じだ、この歯の痛みというのは。

 ここ数年、風邪をひくたびに奥歯のあたりが腫れぼったくなり、シクシク痛むことが多くなっていたが、二、三日前、やはり同じように重い痛みをおぼえ、指で軽く押さえてみたら、どうやらすこし出血しているようだった。
 家内がせいいっぱいあけたこちらの口の中をのぞきこんで、
「親知らずが生えかかってるわよ、これ」
 といった。
 いまごろになって成長をはじめた歯が、内側から歯グキを押しあげ、ついにはそれを破って外に出てきてしまったというわけだ。傷口から雑菌でもはいりこんだのか、化膿しているみたいにジクジクと痛む。舌の先で押さえてみると、血の味がかすかににじむ。
「抜いてもらったら?」
 家内はあっさりいうが、当事者としてはそう簡単にかたづけるわけにはいかない。歯医者に行く、ということをかんがえたとたん、思い浮かぶのはあのいけ好かない金属音と消毒薬のにおいだ。それに、親知らずなんていうのは歯の中でも一番奥のほうに位置している。そんなところにあるものを抜くとなると、ギリギリ、ゴリゴリ、ガリガリと、相当に苦労するにちがいないのだ、歯医者だって。
 虫歯ならあきらめもつこうが、ちょっと成長がおそかったからといって、正常に生えてきた新しい歯をひっこ抜いてしまうというのは、気がひける。
 抜かずにすむものなら、このままにしておきたい。
 が、痛みはズキンズキンと、頭の芯にこたえるようだ。このままほうっておけば、ひどくなるのか、あるいはおさまるのか。
 歯医者。
 行くとすれば、何年ぶりになるのだろうか。十年。いや十五年は行っていないな。
 高校のときに治した歯は、いまでもけなげにがんばっている。

 ズキズキ痛む箇所は、舌先でさわってみると、ぷっくりと腫れあがり、そのあいだから確かに硬いものが顔をのぞかせている。
 親知らずとはまあ、なんということだ、このわたしに限って。
 歯の痛みなどというものは、年月がたつにつれて次第に記憶がうすれてしまうものだ。知人で歯痛をかかえてうなっている人を見ても、自分がじっさいに経験した歯痛の実感を思いだすことはできない。そんなに痛かっただろうか、顔をかかえて涙を流すほど痛いものだっただろうか。
 どうにも痛みの実感というものは、思いだせない。思いだすのは、歯科医院の待合い室で見た事務員の笑顔であるとか、白いマスクをつけた赤ら顔の先生の顔であるとか、そんなものばかりだ。小学校の集団検診で意味のわからない記号をぶっきらぼうに看護婦につげる先生の声も、思いだす。あるいは、コンジスイという薬の刺激性のにおい。歯痛のために眠れないわたしをおぶって、夜の堤防をトボトボと歩いた父親の姿。
 あれはわたしが何歳のころだったのだろう。負われていたぐらいだから、おそらくまだ小学校にははいっていなかっただろう。そう、小学校にはいると同時に、わたしたちはあの川向こうの家からこの街中に引っ越してきたんだった。だからあれはやはり、四歳か五歳のころの記憶ということになる。
 夜になってジクジクと痛みはじめた虫歯に困惑したのは、わたしばかりではなかったと思う。ふとんにはいっても眠るどころかいつまでもメソメソと泣きやまない幼いわたしを見て、思いあまった父親はわたしを背中を背負い、冷たい夜風の中に出ていったのだ。
 かたく目をとじて父親の背中にしがみつくと、雨あがりで増水した川のゴウゴウとうなる音が聞こえた。

 冷たい夜風は、虫歯で腫れあがった頬に心地よかったような気がする。
 家の中ではメソメソ泣きつづけていたわたしも、父親の背中に負われて夜の中に出ていくと、泣くことを忘れてしまった。
 親知らずの痛みに誘われて、わたしはいま、思いがけず、あのときの夜の感触をはっきりと思いだしている。
 増水した川がゴウゴウうなる音。
 暗くて川面は見えなかったが、茶褐色のうず巻く濁流が手のとどかんばかりのところに見えるような気がした。堤防添いの桜並木が、風に吹かれてザワザワと不気味な音をたてていた。
 台風か前線か、とにかく雨が通過したばかりなのだろう、まだ強く冷たい風は残っていて、出がけに母親は、父の背中のわたしをすっぽりおおうようにして半天をかぶせてくれていた。その中でわたしはカメの子のように父親の広い背中にしがみついていた。
 父親がなにかをいっている。歌を歌っているのだろうか。あるいはたんに言葉に節をつけて歌っているように聞こえるだけだろうか。
 あの川のそばを、いまでもときおり通ることがある。川はあのときとはすっかり姿を変えてしまった。上流に大きなダムがいくつもできたのだ。護岸工事が進み、河川敷きは公園となり、川で泳ぐ子どもたちの姿は見られなくなった。
 虫歯の痛みとともに記憶の底にしまわれていたあの光景——荒々しい濁流のひびき、広い父親の背中、あたたかな半天、桜並木のざわめき——そういったものが、親知らずの痛みでよみがえってきたわけだ。
「あっさり抜いちゃったほうがいいんじゃない?」
 そう妻が提案している。
 なんだかおしいような気がして、わたしはてのひらで腫れあがった頬を包んでみる。

2010年1月21日木曜日

Depth

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #10 -----

  「Depth」 水城雄


 定時連絡が待ち遠しい。あと三時間。
 妻の声が聞きたい。顔が見たい。ここしばらく、定時連絡に妻は姿を見せていない。
「重要な任務でしばらく出張してもらっている」
 労働党科学会議の偉大なる海洋技術部総書記殿がそうおっしゃった。任務の内容も、出張先も極秘で、私にすら教えられないそうだ。教えてもらったところで、この深海でなにができようというのか。
 任務完遂まであと十五日。深度七五〇〇メートルに設置された真深度居住実験施設に私が送りこまれて、今日で三十日がたった。いや、まだ二十九日か。あるいは三十一日か。
 真っ暗な深海の底に設置された宇宙船のような狭い実験施設に閉じこめられていると、時間経過の間隔がどんどん麻痺してくる。いまが朝なのか夜なのか、昨日なのか明日なのか、今日が何日なのか。
 小さな窓の外はなにも見えない。なにもない。窓からもれるわずかな明かりのなかを、マリンスノーが音も立てずに降っているだけだ。ときおりリュウグウノツカイがゆっくりと横切るのを見たが、夢なのか現実なのか私には区別がつかない。
 それにしても、妻はどんな任務についているのか。どこへ出張しているのか。
 前回定時連絡で見た妻は、私がいないにも関わらず、生きいきと美しく輝いていた。地上では充実した生活を送っているようだった。その妻の肩に偉大なる海洋技術部総書記殿の手が回されているのを見たような気がしたが、それは私の見間違いだったのか。
 任務完遂まであと十六日……十七日? いや、二十日か? いつまでここにいればいいのだ。ひょっとして、永久にここに閉じこめられてしまうのではないか。
 いまは何時なのか。定時連絡まであと何時間なのか。そもそも定時連絡の時間はやってくるのだろうか。
 私は生きているのか。それとも死んでいるのか。
 私はいったい、だれなのか。

2010年1月20日水曜日

五年ぶりの電話

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----- Urban Cruising #26 -----

  「五年ぶりの電話」 水城雄


 こんな時間にだれだろう、と思って電話を取ると、
「もしもし、末永ですけど」
 と相手がいった。
 だれなんだ、末永って?
「きのう、ブエノスアイレスから帰ってきたの」
 ぼくはうれしくなって、しばらく声が出せない。

 末永っていうから、だれかと思っちゃったよ。小畑さんじゃないの。元気? もちろん元気さ。そっちは? 旦那さんは? 子供は? 小学校二年生? もうそんなになるんだ。いやあ、ほんと。うちは五歳だよ。あのね、聞きたくないけどさ、小畑さん、いくつなの? 三十四? 想像つかないよなあ、お互いに。おれは三十二だけどさ。うそだよ、小畑さんっておれより二つしか上じゃなかったんだっけ。三つじゃなかったの? そう、二つなの? あ、ごめん、ついつい小畑さんっていっちゃうんだよな、末永さんなんだよな。実家なの? 帰ってきて、どこに住むの? また東京? あの前のところ? 旦那さんはそこにいるんだろ? へえ、そんなへんな話、聞いたことないな。じゃ、しばらくは実家にいるんだ。遊びにおいでよ。近いもんじゃないの、姫路なんてさ。そうだ、スキーしにおいでよ、うん、行けなかったなあ。小畑さんが、いや末永さんがあっちにいる間に、一度行きたいと思ってたんだけど、貧乏ヒマなしでさ。どうだった、アルゼンチンは? そうらしいね。行った人はみんなそういってるよ。おれも行きたかったなあ、小畑さんがいる間に。もう行かないの? もしもし、うん、聞いてるよ。カミさんはね、子供といっしょにもう寝ちゃったよ。いつもならおれも寝てる時間なんだけどさ。さっき一度かけてきたろ? あの時は無視してやったんだよな。でも、またかかってきたから、まあ出てやろうと思ってさ。まあ、そういうなよ。うん、会いたいなあ。ねえ、こっちに遊びに来なよ。子供つれてさ。
 なんにも変わってないんだよなあ、声を聞くかぎりじゃ。ねえ、写真送ってよ、こっちも送るからさ。うん。本も送るよ。何冊か送ったよね。え、二冊しか行ってないの? そうかなあ、ちゃんと送ってるつもりでいたのに。じゃあ、そのあとのやつも送るよ。順調なんかじゃないよ。なんかやたらバタバタと忙しくてさ、そのくせちっとももうかんないの。貧乏ヒマなしってやつだよ。行きたかったなあ、アルゼンチン。いいらしいね、ブエノスアイレスは。だれか知ってる人でもいなけりゃ、そんなところ行く機会なんかないもんなあ。行きたかったなあ。スペイン語だろ、あっちは? さっきなんか、冬休みのこと、へんなふうにいってたじゃない、小畑さん。なんだっけ? バカシオンだっけ? バケーションじゃなくてバカシオンなんだ。ははは。笑っちゃうよなあ、小畑さんがスペイン語だってさ。バカシオンだって。ははは。ともちゃんは言葉のほう、だいじょうぶなの? そうだな、両親とは日本語だもんなあ。すぐに忘れちゃうんだろうな、スペイン語なんか。忘れたほうがいいっていうけどね、子供は。ねえ、写真送ってよね。おばさんになってんだろうなあ。楽しみだなあ。いやいや、ごめん。こっちだっていいおっさんだからなあ、もう。白髪なんかいっぱい出てきちゃってさ。もうすごいよ。ねえ、春休みにおいでよ。まだスキーできるかどうかはわかんないけど。子供つれてさ。あ、そうだ、旦那さんもいっしょに来ればいいじゃない。みんなで泊めてあげるよ、ほんと。
 あいつ、おぼえてる? 森崎って。あいつも東京にいるんだぜ。おぼえてない? ばかだなあ、相変わらず。ずっとむこうにいたから、日本のこと、すっかり忘れちゃったんじゃないの? なに、それ。掃除機がおもしろい? そうだよ、もうゴミなんかワンタッチで捨てられるんだよ。静かだし、最近のは。あっちではそうじゃなかったの? でも、あれだろ、メイドかなんかにやってもらってたんだろ、掃除なんか。いいよなあ。住みやすいらしいよなあ。行きたかったなあ、ほんと。洗濯機なんかもおもしろいだろ、じゃあ。浦島太郎だって? うーん、そうかもしんない。おれにはわかんないけどさ。五年っていえば、すごく変わっちゃうもんなあ、世の中。変わってないのは、小畑さんだけだったりして。あ、ちがった、末永さんだな。でも、もう二年だもんな、ともちゃんも。うちなんか、五歳だもん。今年、幼稚園の大きい組。赤ん坊の頃しか知らないだろ? あれ、写真しか見てなかったっけ? うちの子、いい子だよ。かわいいよ。もうかわいいかわいいですまされる年齢じゃないんだけどさ。ともちゃん、どんな女の子になってるのかな。会いたいなあ、見てみたいよ。そうだ、旦那さんにも会いたいなあ。まだ会ったことないんだよな。ほんとだよ。うん、そうなんだ。おばさんになった小畑さんにも会いたいしな。まあ、そう怒るなよ。全然変わってないなあ、五年前と。なにが変わったんだって? 知らないよ、そんなこと。おれも変わってないよ。こうやってしゃべってると、ちっとも変わってないような気がするんだ、なんか。

2010年1月19日火曜日

The Sound of Forest

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #50 -----

  「The Sound of Forest」 水城雄


 きみは森の音を聴いたか。
 はるかな瓦礫の街から、僕はようやくここにたどりついたばかりだ。
 噂は本当だった。本物の森がまだここに残っている。瓦礫の街の人々はだれも信じちゃいなかった。でも僕は信じていた。森の音がいつも僕の耳の奥に聞こえていたから。
 灼けた風が埃を灰に変えながら吹き抜けるときも、硝酸の雨がコンクリートを溶かしながら降りそそぐときも、僕には森の音が聞こえていた。放射線が人々のリンパ腺を灼きつくして血液ガンが蔓延しても、生き残ったバイオチップが自己増殖を始めて人間を攻撃しはじめても、森の音は僕の耳にとどいていた。
 いま、それは幻聴ではなく、まぎれもなく直接ぼくの鼓膜にとどいている。
 微風が木々の葉を揺すり、触れあわせる音。それはかすかな音だけれど、まるで森全体がささやいているようだ。ささやきはときにはっきりとした言葉になり、そしてメロディになる。風が変化するたびに、森の歌声は高まり、ハーモニーは複雑な響きを作る。その風がたとえ文明の末期のしわざによって穢されていようとも、森がささやき、歌声をあげるたび、すべてが浄化されていく。
 ここに来れてよかった。
 森は希望だ。森だけが希望だ。森だけがまだ生きて世界を清め、命を守りはぐくんでいる。
 死神としての人間はこのまま消えていくか、あるいは森とともに生きるすべを学ぶしかないだろう。
 僕にはもう時間は残されていない。ここにたどりつくために命の残りをほとんど燃やしてしまった。
 きみは森の音を聴いたか。きみもここに来て、森の歌をともに聴けるだろうか。

2010年1月18日月曜日

祈る人


  「祈る人」 水城雄


 祈る人よ。
 あなたはもう忘れてしまったのか。
 私たちがやってきた道を。
 ここへとつづく道のことを。
 連なる尾根と人々の悲しみを越えて、はるか旅してきた道のりを。

 いま、あなたはなにを祈るのか。
 あなたは知っている、自分が無力であることを。
 あなたはなに不自由なく日々の糧を得、だれからも強制されることなく好きな場所に行き、さまたげられない眠りについている。だからといってそれを人に分け与えることはできないし、まして見も知らぬ他国の人々の境遇を変える力などあなたにはない。
 世界は紛争と災害と貧困でおおわれている。あなたには関係のないところで銃弾が飛び交い、地雷が破裂している。あなたには関係のないところで子どもが飢え、疫病が蔓延している。あなたには関係のないところで、血が流れ、人が転落し、暴力がふるわれている。それをあなたはどうすることもできない。

 あなたにできるのは、ただそれらに思いをはせるだけ。
 あなたにできるのは、祈ることだけ。
 あなたにできるのは、それらに思いをはせながら祈ることだけ。

 あなたは祈る。
 音楽をかなでながら。
 絵を描きながら。
 愛する人のために食事を用意しながら。
 窓枠をふき、鉢植えに水をやりながら。
 あなたは祈り、ただ思いをはせる。
 そのことでなにも変わらない、なにも変えることができないと知っていながらも。
 もはや世界に希望がないことをあなたは知っているだろう
 それでも私は聴いている。
 森は鳥とともにさえずり、風はかぐわしき命をうたっている。
 私たちが生まれるはるか以前から。
 しかし、あなたのなかでなにかが変わる。
 描く人よ。
 歌う人よ。
 祈る人よ。

Heaven Can Wait

(C)2010 by MIZUKI Yuu All rights reserved
Authorized by the author

----- Jazz Story #9 -----

  「Heaven Can Wait」 水城雄


 平日なのに、どうしてこんなに混んでいるのだろう。
 搭乗時間ぎりぎりに駆けこんだ彼女の席は、最後尾から二列め。窓際。
 通路側にはすでに人が座っていた。
 髭づらの男だ。
 髪が長い。イタリアのブランドものっぽいカジュアルなジャケットと、ゆったりしたスラックスをはいている。いずれも白。
 襟元の開いたシャツと、皮の靴、小ぶりのサングラス。いずれも黒。
 四十歳を越えているだろうか、どう見てもカタギのサラリーマンには見えない。
「すみません」
 やむなく声をかけると、機内誌を読んでいた男は顔をあげ、彼女を見た。そしてまゆをひそめる。
「わたしの席、そこなんです」
 ようやく男は理解したらしい。しかし、眉間のしわは刻まれたままだ。
 怒られるのかと思った。窓側の席なのに遅れてくるなんて。
 しかし、男は文句はいわず、かけてしまっていたシートベルトをはずすと、席を立ち、彼女を通した。
 席につき、窓の外に目をやる。若い整備士がカートを運転して機体から離れていくのが見えた。
 あの人、何年くらいああやって働いているのだろう。
 どこに就職するにせよ、わたしもこれからああやって毎日、どこかで働くことになるのだ。
 勤め人には見えない隣の男から話しかけられたくなくて、システム手帳を取りだすと、熱心に読むふりをはじめた。

 窓の外には、くっきりと富士山が見えている。
 ほとんど雲もなく、晴れわたっている。
 もう夏だ。梅雨にはまだ間があるが、会社訪問で歩きまわっている身としては、そろそろつらい季節だ。まっ黒のリクルートスーツ姿ときては、なおさらだ。
 今日で面接も六社めになる。まだどこからも内定は出ていない。
 スチュワーデスが飲み物のサービスにやってきた。隣の男はなにか分厚い単行本を読んでいた。男も、彼女も、コーヒーを頼んだ。
 前の座席の背もたれからトレイを出し、カップを置くためのくぼみに入れる。
 男はカップを手に持ったまま、あいかわらず熱心に本を読んでいる。
 なにを読んでいるのだろう。電車のなかでも、人が本を読んでいると気になってしまう。そういえば、このところめっきり、本を読まなくなった。とくに自分の楽しみのためだけに本を読むということがなくなっている。
 このまま就職して、忙しい日々がはじまってしまうのだろうか。学生でいられるのはあと2年たらず。
 自然ともれそうになるため息をこらえながら、コーヒーカップを取った。
 と、飛行機が急に揺れた。
 大きなエアポケットだ。どこからか悲鳴が聞こえた。彼女の手のなかでコーヒーカップがすべり、落としそうになった。
「あつっ」
 指にかかった。こぼれたコーヒーがさらに、隣の男の白いズボンにかかった。
「すみません」
 男はポケットから自分のハンカチを出し、コーヒーのシミの上に乗せた。
「すみません、弁償します」
「いや、その必要はないよ。気にしなくていい」
「でも……」
「白いものは汚れると決まっているんだ。おれもその覚悟で着ているのだから」
 やがて飛行機は地上に降りた。
 ドアが開くと、男はなにもいわず立ちあがり、振り返ることもなく先に行ってしまった。
 外国で見知らぬ果物を味わったあとのような気持ちが、彼女のなかに残った。

2010年1月17日日曜日

ラジオ局

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----- Urban Cruising #24 -----

  「ラジオ局」 水城雄


 年明けのラジオ局は、さすがにガランとしていた。
「おめでとうございます」
 と、受付けの女の子に挨拶される。総務で出てきているのは、この子だけらしい。
 ビルの窓からは、北陸特有の重い雪が降りつづけているのが見える。

 コピーマシンもまだ動いていなかった。
 まさか年が明けてから一度も動いていないということはないのだろうが、スイッチをいれてからコピーできるようになるまで、しばらく待たなければならない。
「これ、悪いけど、やっといてくれないかなあ。三部ずつね」
 ぼくは受付の女の子に原稿を渡すと、フロアの奥にむかった。
「あけましておめでとうございます」
 かつて総務にいて、いまは放送部のほうに移った女の子が挨拶してくれた。ぼくも同じ言葉を返す。
 そういえば、この子とは長いつきあいだ。ぼくがこのラジオ局に出入りしはじめた時分からいるわけだから、もう五年、いや六年になろうとしているのか。ぼくも若かったけれど、この子も若かった。いやいや、もう「この子」なんていういいかたは失礼な年齢だ。
「正月から仕事? 大変だね」
 とぼくがいうと、
「だれかが出なきゃならないから」
 サバサバとこたえる。
 フロアの奥には、その女性ばかりではなく、アナウンサーの姿も見えた。髭の濃い、まだ若いアナウンサー。ニュースの下読みに余念がないようだ。
「ホネちゃん、まだ来てないの?」
 とぼくは担当ディレクターのことを聞いた。ガリガリにやせているから、ホネちゃん。彼とも長いつきあいだ。去年、結婚してますますやせたのが気になる。おたがい、健康に注意しなければならない年齢にさしかかっている。
「上にいますよ」
「ありがとう」
 礼をいって、ぼくはスタジオへと続く階段をのぼっていった。
 階段の踊り場から外を見ると、相変わらず重い雪が降りつづけていた。

 夕方の生番組はもう終わっているようだった。
 スタジオがあるフロアも、ガランと静まりかえっている。
 去年はいったばかりの技術の人が、マスタールームでなにか作業している。彼に声をかけてみた。
「おはよう。ホネちゃん、いる?」
「レコード室じゃないですか? あ、あけましておめでとうございます」
 こっちはディレクターとは対象的にふっくらしている。その彼が笑うと、ホテイ様のように見えた。
 彼がいったとおり、ディレクターはレコード室にいた。ヘッドホンを耳に押しあて、一心不乱にCDを聴いている。ぼくは彼の背中をてのひらでパンとたたいた。
「お、おはよう」
 ふりかえり、ヘッドホンをはずしながら、いう。
「選曲、終わった?」
「もうちょい。正月、どうだった?」
「相変わらずの寝正月。どこへ行ってもひどい人だろ? それに店なんかどこもやってないしさ」
「それはいえてる」
 今年は彼にとって、所帯を持ってはじめての正月だったはずだ。どのようにすごしたのだろう。そういえば、ぼくが結婚してはじめて迎えた正月は、どうだったんだろうか。
 あの頃は京都に住んでいたんだ。カミさんとふたりで、一条寺の神社まで初詣に行ったおぼえがあるなあ。そのあと、スケート場にも行ったっけ。
「ハラちゃん、だいじょうぶかなあ」
 窓の外の雪を見ながら、ディレクターは名古屋から汽車でやってくる声優のことを気づかっている。

 声優は30分ほど遅れただけで、ラジオ局に無事やってきた。
 原稿を渡し、軽く打ち合わせをしてから、スタジオにはいる。もう半年以上もやっている番組だ。スタッフ同士、息は合っている。あとは、その日の原稿、選曲、声優の読みをどうするか、という問題だけだ。
 夜の守衛さんが廊下を歩いている。
「遅くまでご苦労さんですね」
 と声優が声をかけた。
「なあに、仕事やからね」
 収録の終了まぎわ、ディレクターの妻が差し入れを持ってきてくれた。
「まだ休み?」
 とぼくはたずねる。
「まだです。来週から」
 彼女はこたえ、持ってきたケーキをみんなにくばった。
 これも彼女が持ってきたカップに、ポットから熱いコーヒーが注がれた。番組はもう、エンディング・テーマを録音するだけで終わりだ。
「いただきます」
 ぼくたちはそれぞれ、ケーキをパクつきはじめた。
 話題がディレクターの健康のことになった。
「もうちょっとふとらせないとだめだよ」
 とぼくと声優が忠告する。
「努力してるんですけどねえ。ちっとも食べてくれなくて。あたしの料理がまずいのかしら」
 などといいながら、彼女は夫のカップに砂糖をいれてやっている。
 ティースプーン1杯と、さらに四分の1ばかり。
 微妙な匙加減を見ながら、ぼくはいった。
「まあ、ぶくぶくふとるよりはいいけどさ」
 スタジオの外はもうまっ暗で、なにも見えない。窓のすぐ外を通過していく雪だけが、白くきらめいている。

2010年1月16日土曜日

An Old Snow Woman

(C)2010 by MIZUKI Yuu All rights reserved
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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #32 -----

  「An Old Snow Woman ~ 被災地に寄せて」 水城雄


 今年の雪は格別だ。かいてもかいても降りつもる。
 一日のうちの三分の二は外にいて、雪かきをしている。そのまた半分は屋根の上にいる。八十を越えた女の身にはこたえるなんてもんじゃない。もっとも、六十三でじぃさんに先立たれてからは、女とか男とかいうものとは関係のない世界にいってしまった。
 それでも、女として生きていたこともある。子どもは三人。男がふたりに、女がひとり。みんな都会に出て、結婚して、孫を作っている。
 それにしても、都会では子どもも大人もなんでみんなあんなに忙しいのかね。ろくに田舎に帰ってくる暇もないらしい。
 たしかにここも今年は忙しい。こう雪にひどく降られりゃしかたがない。でも、雪がやんだときはなんにもすることはないし、ストーブに薪をうんとくべてラジオを聞きながらみかんの皮をむくだけだ。雪かきに追われた日も、家に入れば暇はある。
 寝る暇? そんなものはたっぷりある。そもそも、この年になれば、睡眠時間なんてそうたくさんは必要ない。布団に長く横になっていても、曲がった腰がだんだん痛んでくるだけだ。
 屋根にあがって背丈の倍ほどもある雪をスノッパーで落としていると、時々自分がどこにいるのかわからなくなる。立っている屋根の上も真っ白。地面も真っ白。たんぼも真っ白、山も真っ白。空は鉛色に低くたれこめて、どこまでが空でどこからが地面なのか、まるでわからない。
 うっかり屋根の端まで行きすぎて落っこちないように気をつけなくてはならない。うっかりそのままあの世まで昇っていってしまわないように……まあ、それならそれでかまわまいけれど。
 積もりに積もって、押し潰されて、硬く重くなった下のほうの雪は、スノッパーも歯が立たない。スコップを使うしかない。端のほうから縦、横と切れ目を入れ、最後に下からすくって放り投げる。
 ザク、ザク、ザク。ポン。
 ザク、ザク、ザク。ポン。
 縦、横、下。ポン。
 一定のリズムで進んでいくのが疲れないコツだ。
 縦、横、下。ポン。
 もう何十年もやっている。
 縦、横、下。ポン。
 ひい、ふう、みぃ。ポン。
 いち、にぃ、さん。ポン。
 ワン、トゥー、スリー。ポン。
 アン、ドゥー、トロワ。ポン。
 末娘の子どもはバレエをやっているといっていた。都会にはバレエを教室がたくさんあるらしい。ばあちゃんが娘のころはバレエなんか習いたくても無理だった。そもそもこんな田舎にバレエの先生なんていやしない。
 でも孫娘は高校受験のために、いまはバレエを休んでいるらしい。無事に高校に受かったらご褒美にドイツ旅行に連れていってもらえるんだとか。
 バレエ教室。高校受験。ドイツ旅行。
 ばあちゃんの娘時代には考えられなかったね。
 アン、ドゥー、トロワ。ポン。
 今日の屋根雪かきも、あと一間ほどで終わりだ。終わったら下着を替えて、汗をふいて、薪をくべて、みかんをむきながらラジオを聴こう。こんな山奥にひとりで雪に降りこめられていても、世間のことはちゃんと耳に届いているのさ。

2010年1月15日金曜日

It Might As Well Be Spring

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----- Jazz Story #2 -----

  「It Might As Well Be Spring」 水城雄


 ひさしぶりにベランダの掃除をしながら、彼女にいわれたことを考えている。
 冬のあいだじゅう、外にほったらかしにされていたベンジャミンは、葉をすっかり枯らしてしまっていた。手でむしゃむしゃともむと、枯れた葉はあっけなく落ちて、ベランダに散らばった。
 さすがに部屋のなかに入れ、窓際に置いておいたサボテンは、つぼみを大きくふくらませている。もう今夜にでも咲きそうな勢いだ。小さいのに、不釣合いなほど大きなつぼみをつけている。
「ほんとに行っちゃうんだよ」
 と、彼女はいったのだ。
「春までにはなんとかなると思ったのに、ほんとに行くことになるなんて」
 そんなことをいわれても、彼には返事のしようがなかった。彼女は外資系のコンサルタント会社に就職が決まり、離れた街に行ってしまう。さらに入社してすぐに、研修のためにアメリカに行くことにもなっている。
 彼のほうは就職をせず、かといって大学院にすすむこともしなかった。アルバイトをしながら、いちおう研究室には通わせてもらうことになっていた。
「あたしが行っちゃってもいいのね?」
 そんなふうに問われて、どうこたえればいいというのか。リクルートに走りまわって、そんな会社に決めてきたのは、彼女のほうではないか。
「あたしたち、どうなるの?」
 彼のほうが聞きたい。
「遠距離恋愛って、うまくいかないことが多いんだって」
 そうかもしれない。
 強い春の風が吹いてきて、ベンジャミンの枯れた葉が埃といっしょに舞いあがった。

 夜になって、本当にサボテンの花がひらいた。
 花はふつう、日が照って咲くものとばかり思っていたのに、サボテンは違うらしい。
 ベランダはすっかり片付けて、きれいになった。いまはカーテンが引かれている。ベランダは見えない。
 電話をかけようかどうしようか、迷っている。
 昼間、ベランダ掃除のさいちゅうにかけたら、彼女はいなかった。母親が出て、だれかと買物に出かけたと告げられた。卒業式も終え、アパートを引きはらって、親の家にもどってしまっているのだ。
 もうそろそろ帰っているだろうか。
 ラジカセからはジャズが流れていた。FMをつけっぱなしてにしておいたのだが、ジャズはめずらしかった。
 ピアノトリオだ。それくらいは彼にもわかる。ただ、だれの演奏かまではわからない。
 バラード風のイントロから、テーマの部分に入って、柔らかくスイングしはじめる。それを聞いて、彼は電話の子機を手にした。
 彼女はいた。
「もしもし、おれ」
「うん」
「昼間かけたけど、留守だった」
「買物に行ってたの。なつきと」
 親しくしている従姉妹の名前だな、と思った。たしか、彼女とは入れかわりで大学に入ったばかりの子だ。
「なに?」
「サボテンが咲いたよ」
 電話の向こうで一瞬黙りこんだ。
「見にこないか」
「いまから?」
「ああ、いまから」
 もう一度の沈黙。そして彼女がこたえた。
「いいよ。いまから行く」
「うん」
 彼は電話を切り、ラジカセのボリュームをすこしあげた。
 それから、窓際のサボテンをテーブルに持ってきて、置いた。

2010年1月12日火曜日

It Could Happen to You

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----- Jazz Story #1 -----

  「It Could Happen to You」 水城雄


 ランチタイムのラストオーダーぎりぎりにやってきたのは、矢島のおじさんだった。
 おじさん――つまりママの弟。
「よう、なつき。がんばってるな。似合ってるよ、そのエプロン」
「ご注文は?」
 ウォーターグラスを置いて、わざと冷たく聞いた。
 平日の午後二時、こじんまりした店にはもうあと一組――ふたりのお客しか残っていない。その客もランチコースの最後のコーヒーを残すばかりだ。
 もうすぐ終わり。店にはいる前にケータイに届いたメールの返事を、なつきは早く書きたかった。
 春休みを利用してこのレストランでバイトしているのだ。バイトを紹介してくれたのはおじさん。オーナーと矢島のおじさんは、幼なじみらしい。
「ほかの客にもそんなに愛想悪いのかい? それじゃウェイトレス失格だな。
従業員の接客態度はその店の味の一部なんだぜ。そんな態度だと、きみをここに紹介したおれの立場がなくなるじゃないか」
「ほかのお客さんにはちゃんとしてるわよ」
「そうか。ならいい。おれはこの店が気にいってるんでね。まだつぶれてほしくないんだよ。せめてきみがアルバイトしているあいだくらいはね。お、キース・ジャレット・トリオだな。"It Could Happen To You"。いい曲だ。トーキョーでのライブのやつかな」
「おじさん、注文はなに?」
「めしはいいんだ。コーヒーだけでいい」
 なつきはうなずき、厨房のほうへ行くと、注文と、矢島のおじさんが来たことをオーナーシェフの中山に知らせた。

 メールは幹雄からだった。
 バイトはどうかということと、次の日曜日はあいているかということ。
 もちろん日曜日はあいている。でも、なんて返事しようか。
 なつきがアルバイトを始めたのは、夏休みに計画しているドイツ旅行のためだった。子どものころからミヒャエル・エンデの小説が好きだったおかげで、ドイツそのものに強いあこがれを持っている。大学でもドイツ語学科を選んだ。
今年こそドイツに行ってみたいと思っていた。
 でも、学費で面倒をかけてしまった親に、これ以上の負担を頼めない。だから、少しでも自分でかせぎたかったのだ。
 コーヒーをいれおえたオーナーの中山が、奥から出てきて、矢島のおじさんのテーブルに向かい合って座った。
 ふたりでなにやら親しげに話している。
 あたしの働きぶりについて話しているのかもしれない、となつきは思い、緊張した。
 コーヒーを持っておじさんのテーブルに近づいた。
「あ、なつきちゃん、もうあがっていいよ」
 中山がいった。なつきはほっとした。
「待て。なつきに用があるんだ。だからわざわざ来たんだよ」
 なに、となつきは思った。
「きみにプレゼントがある」
 プレゼントってなに?
「これ。受け取れよ」
 なにか封筒のようなものを渡された。
 あけてみると、紙切れが一枚、入っていた。航空券のようだった。
「ルフトハンザ。フランクフルト行きだ。帰りのチケットは自分で買いな」
「これをあたしに?」
「進学祝いだ。この店もよく勤めてるそうだし、ごほうびだ。たまにはいいだろ、こういうのも?」
 そういって、矢島は照れくさそうに笑った。
 キース・ジャレットがうなり声をあげながらスイングしている。

2010年1月11日月曜日

きみを待つぼくが気にかけること

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----- Urban Cruising #4 -----

  「きみを待つぼくが気にかけること」 水城雄


 20時1分発の登り列車がホームを出ていき、ぼくはその少女に気づいた。
 きみを乗せてやってくるはずの列車が、架線事故のためにしばらくおくれると、たったいまアナウンスがあったばかりだ。
 プラットホームのベンチにたったひとりで、少女はすわっていた。

 ベンチにすわっている少女に、見たところ連れはなかった。
 ホームは違うが、少女の様子はぼくのすわっているベンチからよく見えた。線路をへだててちょうど真向いの位置になる。
 大きな白い衿のついた赤いワンピース。白いソックス、赤いくつ。
 小さな白いポシェットを、肩からななめにさげている。
 長い髪は頭の両側でおさげにして、胸にたらしている。
 小学校にはいるかはいらないか、五歳あるいは六歳ぐらいに見えた。そのくらいの年齢の女の子が、だれにも連れられずに、たったひとりで駅のベンチにぽつんとすわっているには、すこし不自然な時間といえた。
 ぼくは、その少女のいるホームをずっと左右に見渡してみた。
 20時1分発の列車で到着した乗客は、すでに改札口へと続く階段をのぼって、見えなくなっている。次の列車までにはまだ時間があるのか、待っている人もいない。駅員も、列車を見送ったあと、引きあげてしまっている。
 どうやら、ホームにいるのは、その少女ひとりだけらしい。
 少女はまるで動かなかった。
 足をそろえて投げだすように前にのばし、両手でポシェットをしっかりかかえこんだ姿勢で、線路のあたりへ視線を落としている。
 名前を思いだせないけれど、そのような生きている人間そっくりの人形を作る彫刻家がいたんじゃなかったっけ。少女は、その彫刻家が作った彫刻みたいに見えた。
 きっときみならその彫刻家のことを知っていることだろう。きみが到着したら、聞いてみることにしよう。
 少女もだれかを待っているのだろうか、とぼくは思った。彫刻がそうであるように。

 車を駅の裏手の駐車場に置き、ぼくはきみを迎えに来ている。
 何か月ぶりだろうか、駅にやってくるのは。そして、何年ぶりだろうか、きみに会うのは。
 都会を離れ、ぼくが生まれ故郷のこの街に帰ってきたのは、もう五年も前のことになる。
 都会での生活に疲れ、ある意味で夢やぶれ、ぼくはふるさとにもどってきた。ひとりでちいさな事務所を作り、すこしずつ仕事をはじめた。
 都会に残ったきみの活躍は、ときどき耳にはいってきた。ぼくには手のとどかなかった夢を、きみがすこしずつ実現していってくれるのが、うれしかった。ぼくはぼくで、こちらにとても居心地のいい場所と、ぼくなりにやりがいのある仕事を作ることができた。
 そんなぼくのところへ、突然きみから電話があったときは、正直いってびっくりしたよ。
 駅には、夏の夜の湿っぽい空気がゆっくりと流れている。空気には、夜の街と人々の汗のにおいがふくまれているようだ。そして線路のほうからは、かすかな金属のにおいが立ちのぼってくる。
 駅の蛍光灯に虫が集まっている。大きな蛾が蛍光灯にぶつかるたびに、きらめく粉が飛びちるのが見える。
 向かい側のホームには、相変わらず少女がひとりで、身動きもせずにすわっている。
 だれを待っているのか。
 架線事故に関する二度目のアナウンスがはいった。それによると、きみを運んでくるはずの列車は、もうすこし遅れそうだという。
 まあいいだろう。
 そのほうが、何年かぶりに会うきみの姿を想像して楽しむことができる、というわけだ。
 粉をまきちらしていた大きな蛾は、いつのまにかいなくなっている。

 改札口へと続く階段からおりてきたひとりの女性が、少女のすわっているベンチに近付いていった。
 少女のとなりに腰をかけた。
 知合いというわけではなさそうだ。まして母親でもないようだ。ただとなりにすわっただけなんだろう。
 しばらくすると、その女性も、こんな時間に少女がたったひとりで駅にすわっていることが気になったとみえ、なにやら声をかけている様子だ。身体を少女のほうにかがめ、のぞきこむようにして話しかけている。
 なにを話しているのだろう。声はここまで聞こえない。
 少女はしきりに首を横にふっている。が、口は開かない。
 そのうち、女性は少女に話しかけるのをやめた。
 プラットホームに人が増えてきた。次の登り列車の時間が近付いているのだ。ぼくのホームにはまだ列車はやってこない。
 少女のいるホームに、登り列車がはいってきた。車両の蔭になり、彼女の姿が見えなくなる。
 発車ベルが鳴り、列車が動きはじめた。ホームにいた乗客は、あのベンチにすわった女性もふくめみんないなくなったが、少女はまだすわったままだった。
 ぼくは立ちあがり、階段のほうに歩きかけた。そのとき、アナウンスがあり、遅れていた列車が到着することを告げられた。
 間もなく、ぼくの待っていた列車がこちら側のホームにすべりこんできた。
 きみがおりてくるのが見えた。
 五年前よりすこしやせ、大人になり、華やかな感じになり、それでいてすこし疲れた顔のきみが、ぼくにむかって手をあげ、ほほえんだ。ぼくはきみに近寄り、
「よくきたね」
 といった。
 それから向かい側のホームに目をやった。少女の姿は車両にじゃまされて、見えなかった。
「どうしたの?」
 ときみがたずねた。そのきみの声を、ぼくはとてもいいな、と思った。落ち着いていて、自信にあふれている。五年の歳月というきみの物語を、ゆっくり聞きたくなった。
 改札口を出ながら振りかえってみると、いつのまにかあの少女はいなくなっていた。

2010年1月10日日曜日

S'Wonderful

(C)2010 by MIZUKI Yuu All rights reserved
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----- Jazz Story #31 -----

  「S'Wonderful」 水城雄


 携帯電話をエプロンのポケットにもどしたとき、客が入ってきた。
 中年というには若すぎる。青年と呼ぶには歳を食いすぎている。男が花屋に来ることが珍しいわけでもないが、それでもそう多くはない。
「いらっしゃいませ」
 黒いスーツ姿。黒い革靴。しかし、ネクタイは黒ではない。
 男は答えずに、ゆっくりと花を見渡している。
 メールは母親からだった。
 今夜は帰りが遅くなるらしい。が、姉が幼稚園からまっすぐうちに寄ってくれるらしい。だから、夕飯の心配はしなくていい。
「花束を、作ってほしいんだ」
「どのようなものを?」
「白い花が好きなんだが。いや、送り先の者がね。適当に選んでくれないか」
「ご予算は」
「適当でいい」
 ぼくはうなずくと、何本かの花を抜き取った。白のグラジオラス、白のトルコキキョウ、それから白いカーネーションとかすみ草。
 無造作にたばねて見せると、男はうなずいた。
「おくやみですか」
 念のために聞いておく。
「いや」
 男は眉をひそめ、首を振った。

 剪定鋏で都合のいい長さに切りそろえ、花を束ねる。
 根元を輪ゴムでとめ、水を含ませたオアシスペーパーを巻く。ビニールの小袋をかぶせてから、ホイルでかためる。
 この作業にもすっかり慣れた。
 店は兄が継ぐことになっている。仕事にあぶれたぼくは、ただの手伝いだ。
ときどき居場所がないような気がすることもある。
「これを届けてもらいたいんだ」
「どちらさまに?」
 男が口にした住所と宛先の名前は、ぼくも知っているものだった。近所のおばさんのもので、店のお得意さまだ。子どものころからかわいがってもらった人だ。いまはひとり暮らしをしている。いや、一匹の猫といっしょに暮らしている。
 そういえば、おばさんも白い花が好きだった。
「メッセージカードはつけますか」
 尋ねると、男はうなずいた。
 完成した花束をカウンターに置き、ぼくは何枚かのカードを男に見せた。
 男はそれと花束を交互に見ながら、しばらく考えこんでいる。
「いや、やっぱりいい。やめとこう」
 この人とおばさんはどういう関係なのだろうか。考えながら、ぼくは彼に花束を渡した。

2010年1月9日土曜日

群読シナリオ「声」

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  群読シナリオ「声」 原作:夏目漱石/構成:水城雄


  出演 A
     B
     C
     D
     E


  全員、ピアノの前に横一列に立つ。
  向かって左から、A、D、B、Cの順。
  その前の真ん中に、Dくんの椅子が置いてある。

A「豊三郎がこの下宿へ越して来てから三日になる」
D「(Aの次の文「始めの日は……」にかぶせながら)豊三郎がこの下宿へ越して来てから三日になる……(以下、「窓の外でしきりに鋸の音がする」まで読みきる)始めの日は、薄暗い夕暮の中に、一生懸命に荷物の片づけやら、書物の整理やらで、忙しい影のごとく動いていた。それから町の湯に入って、帰るや否や寝てしまった。明る日は、学校から戻ると、机の前へ坐って、しばらく書見をして見たが、急に居所が変ったせいか、全く気が乗らない。窓の外でしきりに鋸の音がする」
A「(みんなの読みが後追いで重なってくるなか、自分のペースで読み進めていく)始めの日は、薄暗い夕暮の中に、一生懸命に荷物の片づけやら、書物の整理やらで、忙しい影のごとく動いていた。それから町の湯に入って、帰るや否や寝てしまった。明る日は、学校から戻ると、机の前へ坐って、しばらく書見をして見たが、急に居所が変ったせいか、全く気が乗らない。窓の外でしきりに鋸の音がする」
B「(Dの次の文「始めの日は……」にかぶせながら)豊三郎がこの下宿へ越して来てから三日になる……(以下、「窓の外でしきりに鋸の音がする」まで読みきる)始めの日は、薄暗い夕暮の中に、一生懸命に荷物の片づけやら、書物の整理やらで、忙しい影のごとく動いていた。それから町の湯に入って、帰るや否や寝てしまった。明る日は、学校から戻ると、机の前へ坐って、しばらく書見をして見たが、急に居所が変ったせいか、全く気が乗らない。窓の外でしきりに鋸の音がする」
C「(Dの次の文「始めの日は……」にかぶせながら)豊三郎がこの下宿へ越して来てから三日になる……(以下、「窓の外でしきりに鋸の音がする」まで読みきる)始めの日は、薄暗い夕暮の中に、一生懸命に荷物の片づけやら、書物の整理やらで、忙しい影のごとく動いていた。それから町の湯に入って、帰るや否や寝てしまった。明る日は、学校から戻ると、机の前へ坐って、しばらく書見をして見たが、急に居所が変ったせいか、全く気が乗らない。窓の外でしきりに鋸の音がする」

 全員、一フレーズずつずれた状態で冒頭の段落を全部読みきる。
 読み終えたら、そのまま待つ。

B「鋸の音がする」

  ピアノ、入る。

C「豊三郎は坐ったまま手を延して障子を明けた。すると、つい鼻の先で植木屋がせっせと梧桐の枝をおろしている。可なり大きく延びた奴を、惜気もなく股の根から」
全員「ごしごし」
C「引いては、下へ落して行く内に、切口の白い所が目立つくらい夥しくなった。同時に空しい空が遠くから窓にあつまるように広く見え出した」
B「見え出した」
C「豊三郎は机に頬杖を突いて、何気なく、梧桐の上を高く離れた秋晴を眺めていた」
A「豊三郎が眼を梧桐から空へ移した時は、急に大きな心持がした。その大きな心持が、しばらくして落ちついて来るうちに、懐かしい故郷の記憶が、点を打ったように、その一角にあらわれた。点は遥かの向にあるけれども、机の上に乗せたほど明らかに見えた」
B「見えた」

  ピアノ、終わり。

C「山の裾に大きな藁葺があって、村から二町ほど上ると、路は自分の門の前で尽きている」
B「尽きている」
D「門を這入る馬がある。鞍の横に一叢の菊を結いつけて、鈴を鳴らして、白壁の中へ隠れてしまった」
A「隠れてしまった」
B「日は高く屋の棟を照らしている。後の山を、こんもり隠す松の幹がことごとく光って見える」
C「見える」
A「茸の時節である」
D「豊三郎は」
B「豊三郎は机の上で今採ったばかりの茸の香を嗅いだ。そうして」
全員「豊、豊」
B「という母の声を聞いた。その声が」
D「その声が」
A「その声が」
C「その声が非常に遠くにある。それで手に取るように明らかに聞える。母は五年前に死んでしまった」

  ピアノ、入る。
  D、椅子を抱いてうずくまる。
  Dのまわりをほかの三人がゆっくり回りはじめる。

D「(ピアノに反応しつつ)豊三郎はふと驚いて、わが眼を動かした。すると先刻見た梧桐の先がまた眸に映った。延びようとする枝が、一所で伐り詰められているので、股の根は、瘤で埋まって、見悪いほど窮屈に力が入っている。豊三郎はまた急に、机の前に押しつけられたような気がした。梧桐を隔てて、垣根の外を見下すと、汚ない長屋が三四軒ある。綿の出た蒲団が遠慮なく秋の日に照りつけられている。傍に五十余りの婆さんが立って、梧桐の先を見ていた」

  D、立ちあがり、椅子から離れる。
  AとB、椅子に背中合わせに座る。
  その周りをDとCが、AとBの顔をのぞきこむように見ながらゆっくりと回る。

A・B「(同時に、しかし不揃いに、それぞれがピアノに反応しつつ)ところどころ縞の消えかかった着物の上に、細帯を一筋巻いたなりで、乏しい髪を、大きな櫛のまわりに巻きつけて、茫然(ぼんやり)と、枝を透(す)かした梧桐の頂辺を見たまま立っている。豊三郎は婆さんの顔を見た。その顔は蒼くむくんでいる。婆さんは腫れぼったい瞼の奥から細い眼を出して、眩しそうに豊三郎を見上げた。豊三郎は急に自分の眼を机の上に落した」

  全員、首をうなだれて静止。
  Cだけが顔をあげ、

C「三日目に豊三郎は花屋へ行って菊を買って来た。国の庭に咲くようなのをと思って、探して見たが見当らないので、やむをえず花屋のあてがったのを、そのまま三本ほど藁で括って貰って、徳利のような花瓶へ活けた。行李の底から、帆足万里の書いた小さい軸を出して、壁へ掛けた」

  C、うなだれる。
  ピアノ、入る。
  A、顔をあげ、

A「これは先年帰省した時、装飾用のためにわざわざ持って来たものである。それから豊三郎は座蒲団の上へ坐って、しばらく軸と花を眺めていた。その時窓の前の長屋の方で、豊々と云う声がした。その声が調子と云い、音色といい、優しい故郷の母に少しも違わない

  A、うなだれる。
  B、顔をあげ、

B「豊三郎はたちまち窓の障子をがらりと開けた。すると昨日見た蒼ぶくれの婆さんが、落ちかかる秋の日を額に受けて、十二三になる鼻垂小僧を手招きしていた。がらりと云う音がすると同時に、婆さんは例のむくんだ眼を翻えして下から豊三郎を見上げた」
D「見上げた(何度もくりかえし。ときどき「がらり」を入れる)」
C「見上げた(何度も。ときどき「がらり」を入れる)」
A「見上げた(何度も)」
B「見上げた(何度も)」

  くりかえしながら、次第に声が小さくささやきになる。
  同時に全員が椅子に近づいていき、最後は折り重なるようにひとかたまりになって「死体」になる。

2010年1月8日金曜日

Majisuka Police

(C)2010 by MIZUKI Yuu All rights reserved
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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #9 -----

  「Majisuka Police」 水城雄


 え、まじすか。
 まいったな、勘弁してほしいっす。
 まじすか。ほんとっすか、それ。聞いてないっすよ。まじすか。やべーなあ。
 だって、あれっすよね。うん、そうっす。そう。
 まじすか。だってあれでしょ。
 いてっ。そうなんだ。はっはっは。え、まじすか。ほんとに?
 いってー。あららら、まじすか。まいった。ほんと、まいったっすよ。
 それって、ほんとっすか。まじすか。おっかしいなあ。聞いてないっすよ。ほんとっす。まじっす。知らないっす。
 はい。え? そういうことですか。へっへっへ。そのままっすか。いやー、まいったな。
 え、なんすか、いきなり。そりゃないっすよ。まじすか。ええー、ははは、おれだって忙しいんすよ。ほんとっすよ。
 ちょっと待ってくださいよ。それ、ナイスっす。ナイスなバディ、なんつて。はっはっは。いいっすね、それ。まじ。いい、いい。おれ、好きっすね、そういうの。
 え? でしょ? ファッキューですよね。まずいっすかね。あ、やっぱり。ははは、まじすか。
 いや、それはちょっと。さすがのおれでも、あれすよ、まずいっすよ、それ。まじすか。え、え、そんなことするんすか? 待ってくださいよ。それだけは勘弁してくださいよ。そんなことしたら、おれ、カノジョに殺されるすよ。まじで。ほんと。
 ほんとすって。やばいっすよ。まじすよ。
 だから、勘弁してくださいって。それだけはやばいっすよ、ほんと。
 おれ、帰ります。え、だめすか? まじすか。
 やべーなあ。ファッキューですよ。
 だめすよ、ほんと。もうやべえって。
 まじすか。
 まじすか。
 まじすか。

2010年1月7日木曜日

Why Do You Pass Me By

(C)2010 by MIZUKI Yuu All rights reserved
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----- Jazz Story #17 -----

  「Why Do You Pass Me By」 水城雄


 あたし、ママのこと、きらい。
 ママが歌ってる。大勢の人の前で。
 みんなママを見て、拍手をして、歓声をあげてる。ママが歌い、なにかいうたびに、みんなの顔がよろこびにはじける。
 みんなママにあこがれてる。
 でも、あたしはママのこと、きらい。
 ステージの上で輝いているママ。でも、家ではどうなのか、あたしは知っているから。
 ママはおこりんぼだ。あたしのことをすぐに怒る。
 あたしはもう大人なのに、いつまでも子どもあつかいだ。すこしでも帰りが遅くなると、もうキーキー怒る。家のことを手伝わないといって怒る。宿題をすませてないといって怒る。塾の成績が悪いといって怒る。そんなんじゃ中学に入れないといって怒る。
 わたしはあなたのためを思って怒るのよ。それがわからないの?
 わかってる。そんなことはわかってる。でも、あたし、ママに怒られたくて生きてるんじゃない。
 ママはあたしのこと、少しもわかっていない。あたしはママのことをこんなにわかっているのに。
 ママがだれを好きなのかも、ちゃんと知ってる。みんなが家に来たとき、ママがどの人だけを見ているのか、あたし、ちゃんと知ってる。それはシーナさんだ?
 ほんというと、あたしもシーナさんのことがちょっと好き。ミズーほどじゃないけどさ。
 ママ、知ってる? シーナさんもママのことが好きなんだよ。

 ママが歌い終わると、拍手は鳴りやまない。
 みんな、アンコールを期待してるんだ。あたしは早く帰りたいのに。もう早く終わって、帰りたい。
 あたしをみんながちやほやしてくれるのは、ママの子だからだ。そんなことぐらい知ってる。だから、ちやほやなんかされたくない。あたしはただ、ママと家でいっしょにウノをやったり、『ヒカルの碁』を読んだりしたいだけ。だれにも頭をなでられたくなんかないし、だれにも家に来てほしくない。
 なのに、いつもうちにはいつもたくさんの人がやってくる。
 みんなママ目当てなんだ。シーナさんだってね。
 でも、この間のライブはひどかったよ、ママ。あれはママがかわいそうだった。あたしだってママの子なんだから、音楽のことはわかる。ママの後ろで演奏していたおじさんたち、ちょっとかっこいい感じはしたけれど、演奏はぜんぜんだった。ママもわかってたんでしょ? すばらしいメンバーを紹介します、なんていってたけど。
 お客さんはだれもわかってなかったよね、きっと。でも、あたしにはわかった。
 ギターの人が変なコードを弾いたとき、ママが悲しそうな顔になったのを、あたし、ちゃんと見てた。
 あたしはママのこと、嫌いだけど、ママの悲しそうな顔を見るのはいや。
 ママ、どうしてそんなにがんばるの?
 シーナさんのため?
 あたしのため? だったらあたし、そんなことちっとも望んでない。もっといっぱい、ママといっしょにいたいだけ。
 ママなんか、きらい。
 でも、きっとシーナさんよりもずっと、ママのことを……

2010年1月6日水曜日

妻のいない日、ひとり料理を作る

(C)2009 by MIZUKI Yuu All rights reserved
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----- Urban Cruising #5 -----

  「妻のいない日、ひとり料理を作る」 水城雄


 テーブルの上に並べてみた。
 玉ねぎ。じゃがいも。塩。こしょう。酢。
 それ以外のものはすべて買わなければならないらしい。あいつめ、冷蔵庫の中をすっかりきれいにして帰りやがった。

 妻が帰省した翌日、夕食の準備のためにぼくは冷蔵庫の点検に取りかかった。
 まだ昼すぎだ。が、今夜は、いつも食べさせられている冷凍食品、化学調味料、インスタント食品、そういったものからすっかり足を洗い、自分ひとりのために完璧な料理を作るのだ。
 メニューは考えてある。シンプルかつぜいたく。
 冷蔵庫には、ぼくのメニューに使えそうな材料はほとんどなかった。
 まあいい。どちらにしても買物には出かけなければならないのだ。
 窓から外の庭を見ると、からからに乾いた植木鉢の土が、照りつける太陽の光を反射してまぶしい。
 頼まれていた水やりを忘れてしまった。外は暑そうだ。
 車はよそう。どうせ歩いていける距離なのだ。
 そのかわり、景気づけにビールを一本あけてから行くことにしよう。
 ぼくは冷たいビールを思いきりあおると、だれにともなくにんまり笑った。

 土曜日の午後、思ったとおりショッピングセンターは、買物をする主婦や家族連れでごった返していた。
 ショッピングセンターの中にある酒屋で、まずワインを買った。ボルドーの赤。
 作っておいた買物リストを手に、食料品売場にはいっていく。
 ときどき妻の買物につき合うことはある。プラスチック製のかごを持たされ、召使いよろしくあとをついて回るのだ。妻が血走った目で食料品を物色するあいだ、ぼくは年若い主婦や女子学生に目をうばわれている、というのが常のパターンだった。
 今日はちがう。血走った目こそしていないが、ぼくは女子学生などには目もくれず、自分のための買物に没頭する。
 サラダのための野菜、メインディッシュのつけ合わせなどを見つくろってから、最後に肉を買うことにした。
 こここそ今日のメインなのだ。
 ぼくは、獲物に近付く猛獣よろしく、慎重に売場に近付いていった。

 食肉売場もやはり、主婦などでごったがえしていた。
 何人もの女性がびっしりとガラスケースに取りつき、店員にむかって口ぐちに注文を叫んでいる。中には、ガラスケースを指先で叩き続けて、自分のほしい品物がなんであるのかを店員に伝えようとしている女性もいる。
 さすがのぼくも、ガラスケースに近付くのをためらった。
 妻は毎日、この修羅場をくぐりぬけて食料品を手にいれてくるのだろうか。
 ちょっと立ちくらみを感じる。が、ここを避けて通るわけにはいかない。ここで目的の肉を買って帰らなければ、ぼくは今夜、飢えて死ぬことになる。
 ありのようにガラスケースにたかっている女性たちのうしろに、ぼくはぴたりとついた。だれかが買物を終えて場所をあけたら、すぐにそこにもぐりこもうという魂胆だ。
 何時間とも思える時がすぎ、ようやくぼくのすぐ前にいた女性が場所をあけた。ぼくの横からそこに割りこもうとした中年の女性がいたが、ぼくはすばやく前に進んだ。なんだかすさまじくうしろからにらみつけられているような気がしたが、いたしかたない。
 それから店員にむかって、文字どおり叫んだ。
「牛のロース、500 グラム!」
 ほとんど永遠とも思える時がすぎ、ようやくぼくのオーダーが通り、ぼくはひとかたまりの肉を手にすることができた。
 それからぼくは、ぐったりした身体をレジまで運び、長い長い列にならび、お金をはらい、ビニール袋に買ったものを押しこみ、太陽にあぶられるために外に出た。
 ぼくは、日ごろの妻にたいする感謝の念がわき起こってくるのを、押えることができなかった。
 くやしいことではあったけれど。

 冷たいシャワーと今日2本目のビールが、なんとかぼくを立ちなおらせた。
 料理に取りかかる前に、音楽をかけることにした。
 ステレオセットは居間のほうにあるが、ボリュームをあげればキッチンまで聞こえる。
 なにか軽やかな音楽がいい。
 そう、たとえばボサノバのような。
 ぼくはミルトン・バナナのCDをプレーヤーにセットした。かつてはよく、レコードで聞いたものだが、レコードは結婚するときに処分してしまった。このCDも、妻がいるときには聞かないことにしている。
 10年以上前の夏の思い出にはげまされながら、ぼくは料理に取りかかった。
 焼いている間に型くずれしないように、肉をたこ糸でしばる。表面に塩、こしょうをすりこむ。野菜を切る。
 肉をフライパンで焼く。焼き色のついた肉を、オーブンにいれる。
 肉が焼きあがるのを待つあいだ、サラダを作ることにした。
 レタス、チコリ、アンディーブ、クレソン、それによく熟れたトマト。指でちぎった野菜は、大きめのサラダボウルにおおざっぱに投げいれる。
 にんにくをきかせたドレッシングを作る。妻なら、鼻をつまんで悲鳴をあげることだろう。
 肉が焼けた。
 オーブンプレートにこびりついたうまみを利用して、グレービーソースを作る。ブイヨンは固形のものだが、まあいいとしよう。なにからなにまで完璧というわけにはいかないものだ。どこかに妥協がなければ、孤独を楽しむことはできない。
 できあがった料理をテーブルにならべ、ぼくはワインの栓を抜いた。
 音楽を変え、手を洗い、ひとり食卓につく。
 テーブルにはぼくの今日がいいにおいを立てている。
 音楽は、妻とよく聞くモーツァルトだ。
 ま、それもいいだろう。
 夏に感謝だ。

2010年1月5日火曜日

The Burning World

(C)2010 by MIZUKI Yuu All rights reserved
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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #43 -----

  「The Burning World」 水城雄


 時がはてたこの地に、やつはひとり立っていた。
 虫けらのようにグジグジとはびこっていた人類は、すべて死にたえた。
 やつがプログラムするまでもなく、突然変異による生物学的欠陥をかかえた人類は、自滅の道をひた走った。
 陽が沈もうとしている。やつはそれをひたすら見つめている。目が灼けるのもかまわず、まっすぐに赤い太陽を見ている。
 水素の塊である太陽。水素と水素が高温と高圧で融合してヘリウムに変化するときに生ずる核融合反応熱を、過去から未来永劫にわたって発しつづけてきた太陽。地球上のすべての生命のみなもとの太陽。
 それもいつかは終焉を迎える。赤色の巨星となり、最後は太陽系全体を呑みこんで、真っ黒な虚空に流れこむ。
 やつの目にはそれがうつっている。
 赤い太陽の前を、黒い鳥の影がゆっくりとよぎっていく。いや、鳥と思ったのは、遺伝子変異して巨大化したトビウオだった。彼らはいまや、肺を持ち、空気呼吸をしながら、大陸間を移動する能力を身につけている。それは、やつが人類を滅亡に追いやった変異バクテリオファージの副作用とでもいうべき現象のひとつだ。
 鳥、いや、トビウオを見て、やつは突然思う。女を抱きたい、と。
 やつの記憶には、柔らかな女の感触がはっきりと残っている。抱きしめたとき、グニャリとくずれそうに形を変えた女の肉の感触。自分をすべりこませたときに、からみついてきた女の肉の感触。
 それはもう永遠に味わうことはできない。しかし、やつはそれを後悔してなどいない。すべてを終わらせることを覚悟の上でのことだったからだ。
 ちっぽけな土地や財産をあらそって殺しあう人々。狭隘なイデオロギーや宗教観を押しつけあって戦争を繰りかえす民族や国家。たえまない略奪と殺戮と悲劇の連鎖。
 自分ひとりが生き残ったことだけが、計算外だった。どこかで変異マクロファージに対する耐性を、開発者である自分ひとりが獲得してしまったようなのだった。
 それはそれでかまわない、と思う。人はいずれ死ぬ。どんな者も死をまぬがれることはない。自分とてそれはおなじだ。次の世代につながらない限り、人の死は絶対的なものだ。自分が死ねば、それですべてが終わる、とやつは思った。
 人類によって陵辱され、汚染され、焼きつくされるという世界は、もう二度と来ないだろう。死にたえさせられた多くの種も、もう二度とは帰ってこないかもしれない。が、破壊者がいない進化の楽園において、また別の、美しく、英知に満ちた動植物の新種が生まれることはまちがいない。そのことを想像して、やつはこの上ない至福に震えてしまうのだった。
 太陽が燃えている。
 やつが見ているのは、燃えつくされ、砂漠化した瓦礫の都市の風景だ。が、それがやがて砂に覆われ、地衣類にまとわれ、やがて緑が増し、草原から森林へと変化し、多くのまだ見ぬ新種の生命にあふれることは、やつの想像を超えてたしかなことだ。そのときにはもちろん、やつはもうここにはいないだろう。
 しかし、ここではないどこか、いや、ここのどこか、ここでもあるどこでもないどこかで、やつが未来に参加していることはまちがいないことだろう。略奪も殺戮も戦争も悲劇もない未来。さまざまな多様性が調和しあい、いのちが連綿とつながっていく時間軸。
 そしてそれもいずれは、まっ赤に燃える巨大な太陽に呑みこまれていく。
 燃える太陽が地平線に沈みこみ、一瞬の緑光をはなったとき、やつの意識は肉体を離れ、解き放たれる。そのとき私は、やつを私のなかに受けいれる。すべての集合意識としての、宇宙という名の、私のなかに。

2010年1月4日月曜日

アンリ・マティスの七枚の音(2)

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  「アンリ・マティスの七枚の音(2)」 水城雄


 待ち合わせのカフェには、すでに彼がいた。
 ざっくりした麻のジャケットを着て、通りを行く人々をながめていた。
 ロイスを見つけると、いった。
「すまなかったね、仕事中なのに呼び出したりして」
 ロイスはカフェオレを注文した。
 男のジャケットの内ポケットから絵葉書が出てきて、彼女に渡された。“音楽”と同じ緑の丘と青い空。やはり赤い肌の男女が五人、手をつないで踊っている。人体がアラベスク模様を作っている。
「これが最後の一枚ですか」
 ロイスは彼を見た。
「そう。音楽の次は、当然、ダンスだろう?」
「どうしてわたしにこれを?」
「なにかプレゼントしたくてね。といっても、ぼくができるのは、つまらない小説を書くこと。つまらない小説など、きみも読みたくはないだろう。で、好きな絵を旅先から送ることにしたわけだ。ぼくにしてみれば、きみに音楽をプレゼントしたつもりだったんだがね」
「音楽を?」
「マティスの絵で構成された組曲のつもり。そういうふうには感じてもらえなかったかな。七枚の組曲として」
「八枚でしょう。これをいれれば」
「いや、七枚だ。最初の一枚――マティスの写真は、いってみれば、オーケストラのチューニングみたいなものだよ。ほら、演奏の前にオーボエが最初に音を出して、皆が音を合わせるだろう。あれだよ」
 そういって、彼は笑みを浮かべた。いたずらが見つかった子どもの照れかくしのような笑顔。
「あの写真にはぼくもずいぶん助けられたよ。仕事がはかどらないときはあれを見る。きみの仕事はうまくいってる?」
「あまり……」
「そうか。じゃ、あの写真を見ることだね」
「あなたが仕事に行きづまることがあるなんて、考えられないけれど」
「馬鹿いっちゃいけない。あるさ、当然。でもぼくは、あんなものを書きたいわけじゃないんだ」
 一瞬、男の顔に苦渋が浮かんだ。ウェイトレスが運んできたカフェオレを、ロイスは口に運んだ。
「きみはいくつ?」
「二十二です」
「まだ生まれたてだね。生まれていないといってもいいかもしれない。でも、きみの作る音はいい。きみはきっと、ものごとを感じとることを知っている人なんだ。うらやましいよ。きみぐらいの年齢のとき、ぼくはなにも知らなかった。まあ、いまだってそう事情は変わっちゃいないけれど。きみは自分を信じて、そのまままっすぐ進めばいい。ストレートに、シンプルに」
 男はコーヒーカップを口に運び、眉をしかめた。
 ロイスは、彼のことを誤解していたかもしれない、と思った。
「いいことを教えよう。ものごとには必ず、いつくかの側面がある。人もいくつもの側面を持っている。けっして人に見せない側面も、だれだって持っている」
「あなたも?」
「当然。でも、ひとつ、きみに見せてあげた」
 ふいに彼が立ちあがった。
「悪かったね、時間をさかせてしまって。きみの仕事がはかどることを祈ってるよ。ファンのひとりとしてね。今日は会えてよかった」
 また子どもみたいな笑顔になったと思うと、ウインクされた。
 ちょっとあっけに取られた気分で、ロイスは男の後ろ姿を見送った。
 彼女はもうしばらくそこにいて、カフォオレを半分飲んだ。
 帰ろうと彼からもらったダンスの絵を取ると、その下にふたり分のコーヒー代がきちんと置いてあった。
 外は少し風が出て、薄日が差しはじめている。
(おわり)

2010年1月3日日曜日

アンリ・マティスの七枚の音(1)

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  「アンリ・マティスの七枚の音(1)」 水城雄


 太陽は空全体をおおった薄い雲のむこうにある。
 よく光のまわったこのような日、彼女の部屋のベンジャミンはライトボックスの上に置いたリバーサルフィルムの被写体のように見える。
 きれいだ。
 でも、彼女はそこでひとつ、ため息をついた。なぜ会うことを承知してしまったのか。仕事もはかどっていないというのに。
 ちょっと気が重い。相手は、その人の書いた小説を読んだことがなくても、だれでも名前を知っている流行作家。
 一時間前、電話のむこうで彼がいった。
「こっちに帰ってきている。会えないだろうか」
 ロイスがことわる口実をさがしていると、彼はつけ加えた。
「まだ送っていない絵葉書が一枚あるんだ。それを渡したいと思って」
 絵葉書がなければ、そしてそれが「一枚」じゃなければ、会う約束はしなかったと思う。
 彼女は答えた
「仕事があるので、少しの時間だけなら」
 彼から最初の絵葉書が送られてきたのは、ちょうど半月前。絵葉書というより、写真だ。光の差しこむアトリエで、ひとりの太った老人が立っている。長い杖を、壁に立てかけたキャンバスに突きつけ、しきりになにかを計算している風情だ。老人は晩年のアンリ・マティスであり、写真は制作現場を撮影したものだ。画家というより、大学の教授かなにかのように見える。
 葉書の表には、差出人の名前と、
「パリにて」
 という言葉だけが書かれていた。
 数日後、二通めの葉書が送られてきた。“コリウールのフランス窓”と名付けられたマティスの絵だった。
 縦に区切られた画面。単純化された色面。よく見なければ、窓というよりも、純粋に色彩で構成された抽象絵画としか思えない。が、色そのものの配置が、見る者にある種の感情を呼び起こすみたいだ。とくに淡い水色、淡い緑の色彩に、心を動かされるような気がする。
 その絵を画集で見た覚えがあった。表には、
「マルセイユにて」
 とあった。
 その後も、数日おきに絵葉書が送られてきた。いずれも室内の描写で、単純な色面で構成されていたり、逆に装飾的なアラベスク模様が描かれていたり。
 彼と最初に出会ったのは、ある小さな音楽祭のレセプションでのことだった。ロイスはその音楽祭のために、曲を提供していた。バイオリンとビオラ・ダ・ガンバのための小品。
 ロンドンからやってきたバイオリン奏者と話していると、その小説家が割りこんできた。
「あなたの曲、聴きましたよ」
 ロイスが少し前に出したアルバムのことをいっているらしい。
「じつにいい。シンプルでストレートな音だ。しかも、これほど若くて美しい人だとは知らなかった」
「ありがとうございます」
 儀礼的な笑みを返した。
「それにとても男性的だと思う。女性特有の湿度がなくて、ぼくは好きだな」
 これは新手の口説き文句だろうか、とロイスは考えた。女優たちとの派手な噂のある流行作家。
 自分となにかの接点があるとは思えないその男と、いま会う約束をした。
 ロイスはピアノの横の白い壁に視線をむけた。
 最初の写真から数えて四枚めの葉書が送られてきたとき、彼女はそれらをピンで壁にとめた。仕事場のマティス、コリウールのフランス窓、金魚鉢の絵、“ピアノの稽古”と題された絵。
 そのあとも絵葉書は続いて、いま、全部で七枚がピンでとめられている。赤い大きな室内、“夢”と題名の女性を描いた絵、そして最後が“音楽”。
 こうやって見ていると、なにかメッセージを伝えているように思える。彼はこの絵葉書を送ることで、なにをいいたかったのだろうか。
 葉書の投函地は全部ことなっている。パリからはじまって、南フランスのマルセイユに飛び、それからニース、リヨン、ブルゴーニュ地方と移動している。最後の“音楽”は、ふたたびパリだ。緑色の地面に立ったりすわったりしている赤い肌の五人の男。ひとりはバイオリンを弾き、ひとりは二本の笛のようなものを口にくわえている。あとの三人はそれを聴いている。背景は青い空だ。1910年の作とある。
 描かれた年代に意味があるのだろうか。
 それとも、題名に意味があるのだろうか。
 あるいは投函地に?
 いま、最後の一枚を渡してくれるという。八枚めの絵葉書。“音楽”の次の一枚。音楽の次には、なにが来るのか。
 興味をうまくかき立てられてしまったのは、彼の思うつぼなのかもしれない。そうやって女たちの興味をかき立てては、スキャンダルを巻き起こすのかもしれない。
 でも、ロイスはどうしても、最後の一枚を知りたかった。
 仕事が行きづまっていることもある。次のアルバムのための最初の一曲。それがどうしても書けない。イメージが固まらないのだ。最初の一曲が固まらなければ、全体も作れない。
 渓流を渡ろうとして、うまく連続した飛び石を見つけられずにいるような気分だった。
 あの小説家も、最初の一行が書けずに立ち往生することがあるのだろうか。
((2)につづく)

2010年1月2日土曜日

安全第一

(C)2010 by MIZUKI Yuu All rights reserved
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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #30 -----

  「安全第一」 水城雄


 工事現場は安全第一。
 横断歩道は安全第一。
 調理実習は安全第一。
 心臓手術は安全第一。

 自動車を運転する時はシートベルトを締めましょう。
 自転車に乗る時はライトをつけましょう。
 セックスする時はコンドームをつけましょう。
 出産する時はラマーズ法で呼吸しましょう。

 無闇に逆噴射しない。
 水爆の発射ボタンは押さない。
 モスリムの人たちをののしらない。
 国旗を燃やさない。
 コンビニに押し入らない。
 他国の人を拉致しない。
 放火しない。
 ひき逃げしない。
 ストーカーにならない。
 踏切に車を置き去りにしない。
 テポドンを発射しない。
 ビルに旅客機を突っこませない。

 きみはいう。
「気をつけて行ってきてね」
 ぼくはいう。
「気をつけて帰ってくるんだよ」

 人はみな、人の無事を祈る。
 ぼくはきみの無事を祈る。
 きみもぼくの無事を祈る。
 きみと、きみの家族と、ぼくのお母さんと、ぼくの妹と、妹の息子と、妹の夫の、無事を祈る。
 お母さんの友だちと、きみの友だちの友だちと、きみの親戚と親戚の友だちと、親戚の友だちの知り合いの政治家や役人やゴミ拾いの人の無事を祈る。
 顔も忘れた同級生と、その家族と、ホームステイの中国人と、マルチ商法にはまった妻の無事を祈る。
 でもなんだって、人は人に銃を向ける?

 気をつけて行っておいで。
 気をつけて帰っておいで。
 ついたら電話しな。
 帰ったらメールしな。
 電車に乗り遅れないようにね。
 ガスの元栓は締めておくように。
 横断歩道は気をつけて。
 包丁で手を切らないように。

 ぼくのひたいに大きなレッテル。
 きみに向かって、
「安全第一」

2010年1月1日金曜日

Ba-Lue Bolivar Ba-Lues-Are

(C)2010 by MIZUKI Yuu All rights reserved
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----- Jazz Story #34 -----

  「Ba-Lue Bolivar Ba-Lues-Are」 水城雄

 Scene 1

「おばあちゃん、あけましておめでとう!」
「んや、おめでとう、るみちゃん」
「やだ、おばあちゃんったら。るみじゃなくてるなでしょ」
「そうだったよね、ごめんよ、るみちゃん……ん、なんだね、この手は?」
「だからぁ、なにかあたしに渡すものとかあったりしないかなぁ、なんて」
「渡すものかい? さぁて、なんだっけね。覚えてないねえ」
「まあいいよ、きっとそのうち思い出すから。おばあちゃん、元気そうでよかった」
「そう、腰が痛くってねぇ。もうだめだね、この歳になっちまったら」
「そんなことないよぉ、すっっっごく元気そうじゃん、おばあちゃん」
「ほんとにこのごろは悪い事件ばっかり起こるねえ。ほんと、生きているのもいやんなっちゃうよ。るみちゃんはまだ若いからいいだろうけどね」
「るみじゃなくて、るな。それより、おばあちゃん。最近は景気が悪くてさぁ」
「あん?」
「景気。けいき。ケーキが悪いんだってば!」
「ああ、るみちゃんは小さいころからケーキが好きだったよね」
「そうじゃなくて、景気。お金のこと」
「ああ、お金ね。そうそうそうそう、景気が悪くて、たくさんの失業者が出てるって話だよねぇ。ひどい世の中だねえ、まったく」
「そうなのよ。だから、高校生もいろいろと大変でさ。わかるでしょ?」
「わかるさ、おばあちゃんだって。だからといって、るみちゃん、ああいうことしちゃいけないよ。なんつったっけね、あれ。ほれ、あの、煙突じゃなくて、線香じゃなくて、そうそうそうそう、援交」
「援助交際ね。そんなこと、るな、しないよう。でも、苦しいんだ、最近。だから、ほらおばあちゃん、お正月に孫に渡すもので、なにか忘れているもの、あるでしょ? 思い出してよ、ねえ」
「うん、ほんとに派遣切りは大変だよねえ」

 Scene 2

「で、なんだい、パパとママは元気なのかい、るみちゃん」
「るみじゃなくて、るな。うん、いちおう、両方とも生きてるよ」
「そうかい。ちっとも顔を出してくれなくてね。腹を痛めて生んだ子なのに、薄情だよねぇ」
「そうねえ。ふたりとも冷たいっつーか、最近、さめてんだよね」
「どういうふうに?」
「いまはやりの家庭内離婚っつーか、なんかそんな感じなんだよね」
「離婚? パパとママ、離婚するのかい?」
「離婚はしないけどさぁ、事実上離婚してるっつーか、あたしがいるから離婚できないっつーか、ママはほら仕事してないからさぁ、離婚してもひとりで生きていけないっつーかさぁ。ま、いろいろあんのよ」
「ふーん。光男が浮気してるとか、そういうことじゃないんだよね」
「ううん、パパはそういうタイプじゃない。そんな甲斐性もないしさぁ」
「ないかい?」
「ないよ。ないない、全然ない。浮気するとしたらママのほうだね」
「ほんとかい?」
「ママってほら、けっこう美人だし、十歳は若く見えるし、スタイルだっていいし、まだまだ男の人が放っておかないって感じ?」
「百恵さんはきれいだからねえ」
「そうなのよ。だから、けっこうやばいんだ。前はパパも機嫌のいいときなんか、あたしにポンってお小遣いくれたりしたのに、最近は全然でさぁ」
「ふうん、それは困ったねえ」
「だから、ほら、わかるでしょ? けっこう大変なんだ、あたしも。ケーザイ的にヘッポコしてるっていうかぁ」
「それをいうなら、逼迫だろ?」
「そうそう、逼迫。せっぱつまってんだ、ケータイの料金とかさ。ほんと、もうエンコーとかに走っちゃいそう」
「エンコーはだめだよ、るみちゃん」
「わかってるって。だからぁ、ほら、おばあちゃん、この際だからはっきりいっちゃうけどさ、そろそろお年玉くんない?」
「そうさな、新型インフルエンザは心配だよね」