2010年12月22日水曜日

沈黙の朗読――記憶が光速を超えるとき(3)

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----- 朗読パフォーマンスのためのシナリオ -----

 ちゃんと思いだした。子どものころから物忘れがひどかった。小学生のある日、ランドセルを忘れて手ぶらで学校に行った。母親が届けに来て、教室の入口で、同級生たちが見ている前で、こっぴどく頬をはたかれた。いまのいままでそんなことを思いだしたこともなかった。無意識の奥底にしまいこんでいた思いだしたくない記憶。たくさんの思いだしたくない記憶が、無意識の奥底にしまわれ、忘れさられている。物忘れをした恥ずかしい記憶がたくさん、記憶の奥底に忘れさられている。蛇口のパッキンを買わなければ。

 私は歩きはじめる。おっさんどこへ行くんだよというだれかの声が聞こえる。腕を強く引きもどされる。

 都会の学校に進学し、都会の会社に就職し、都会で結婚し、都会で家を持ったけれど、いつも思いだすのは野山のことだった。軒先に作られた燕の巣を見つめながら、畑の上の草はらで見つけた雲雀の雛のことを思っていた。街を歩きながら、風とともに山道を駈けおりたことを思い出していた。ひとり渓流をさかのぼり、岩陰にひそむヤマメを狙ったことを思い出していた。

 列車が通過いたします。危険ですので、黄色い線の内側までさがってください。
 列車が通過いた   します。危険です    ので、黄色い線       の内側
         までさが
                 ってくだ
                              さい。

 私はどこへ行こうとしているのか。
 そうだ、蛇口のパッキンを買いに行くのだ。
 だれかの怒号が聞こえる。
 腕を強く引かれる。
 私はそれをふりほどく。
 蛇口のパッキンを買うのだ。
 蛇口のパッキンを買うのだ。

 危険ですので。
 黄色い線の内側。

 蛇口のパッキンは死。
 蛇口のパッキンは死。
 死とはなにか。

 あのとき私が見ていたものの話をしよう。
 ランドセルを忘れて親に怒られた私は、その夜、かけっぱなしの梯子を伝って、家の大屋根に登った。
 屋根に寝っ転がって星を見ていると、自分がどこにいるのかわからなくなる。そんな経験はないかい? 自分が丸い地球に張り付いて、寝ているのか、地球にぶらさがっているのか、わからなくなってしまう。
 ちっぽけな地球の表面に張り付いている私。宇宙のまんなかにぽっかりと浮かんでいる地球に張り付いている私。
 地球、太陽系、銀河、銀河団、泡構造、超新星、膨張する宇宙、ブラックホール、ビッグバン、百数十億年のかなた。それが目の前に広がっている。永遠のかなた。
 永遠ってなんだろう。宇宙のはてにはなにがある?
 そんなことを考えていると、なにが原因で親にしかられたのかすっかり忘れてしまう。
 でも、屋根から降りると、まだ怒っている父がいたし、父に気を使っている母もいたし、自分は怒られまいとこっちをうかがっている妹がいた。
 そうやって地表の現実のなかで、今日まで生きてきた。
 宇宙のなかのちっぽけな現実。喜んだり、悲しんだり、疲れたり、発奮したり、裏切られたり、愛したり、お金の心配をしたり。
 この命も、いずれ消えていく。
 死なない人はただのひとりもいない。偉大な人もちっぽけな人も、金持ちも貧乏人も、ひとしく皆、死を迎える。
 沈黙に戻る。


 村を離れ、都会に出たことを後悔してはいない。都会には都会の生活があった。ただ、夜中にこっそり裏口から抜け出し、ひと気のない公園をさまようとき、私の脳裏には谷川から沸き立つように舞い上がる羽化したばかりの蛍の光の渦が見えていた。降るような満天の星が見えていた。

 いま、私は、都会の電車のホームで、だれかにつかまえられ、引きたてられようとしている手を振りほどき、妻にたのまれた水道の蛇口のパッキンを買いに行こうとしている。


 ぼくの身体は軽くなり、ふわりと浮いて舞い上がる。

 そのとき、ふいに私は


    妻の
              名を

                              思いだす。

         青い空
                  と
                          白い    雲
















(おわり)

2010年12月21日火曜日

沈黙の朗読――記憶が光速を超えるとき(2)

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----- 朗読パフォーマンスのためのシナリオ -----

 あれは何年前のことだったろうか、その犬の名前はいまとなっては妻の名前と同様忘れてしまったが、愛苦しいゴールデンレトリーバーで、まったく家族同様に暮らしていたのだから、その犬の名前を私が忘れてしまったのはおそらくフロイトがいうところのつらい記憶の番人の仕業に違いないのだが、彼の長い毛足のふさふさと柔らかな体毛の感触ははっきりとした実感をともなってまるでいまでも手をのばせばそこに実体化するがごとく記憶の奥底にしまいこまれていたし、それがトリガーとなってぐりぐりと動くたくましい躍動する筋肉の感触や雨に濡れるととくに強くなる身体のにおいまで実体化するようで、しかしいま私が思いだしているのは彼が悪性のリンパ腺腫でたった六歳で死んでしまったあの朝、まだぬくもりの残っている大きな身体を玄関のコンクリートのたたきから部屋のなかへと運びこもうと抱きあげたまさにそのときの感触でありました。私はその感触を
        なので神聖なことのようにいまでも感じているのであり、悲しみ、喜び、楽しみ、暖かさ、活発さ、冒険、新鮮、安心といったさまざまな感情の記憶とつながっている大切な記憶のトリガーといってもいいのであります。
 それなのに、であります。
 それなのに、であります。
 それなのに、であり    右手に知覚が戻ったのは、私の右手をなにかが強く圧迫しながら強い力で上へと持ちあげようとしていたときであります。私は私の神聖な記憶を無理矢理かなたへと押しやられ、かるい憤りを覚えながら、私の右手に起こりつつあることを認識しようとしたのであります。
 だれかが、何者かが私の右手をつかみ、強くつかみ、握りしめ、そして私の意に反して上のほうに差し上げようとしている。

 私が身体を密着させまいと懸命の努力をしていたところの私の前にいた短いスカートからむちむちした太ももをのぞかせていた女子高校生が首をねじまげて私のほうを見上げ、そう彼女は私よりずっと小柄だったため、私を見るためには下から見上げるような格好にならざるをえず、上目遣いになり、下方から鋭角に私を見上げることになり、視線は下から上へと向かって急角度で突きあげられ、私の目に視線が突き刺さり、私はそれがなにを意味するのかとっさには理解できず、ただ視線を受け止めるばかりで、とまどった私の視線が彼女に伝わったのかどうかすらわからず、彼女は鋭い視線を向け、その視線は怒りや憎しみに満ちているようにも見え、たんなる眼球がなぜそのような感情を表出するのか私には理解できず、眼球ではなく眼球を縁取るところの瞼や眉やそれを取り囲む表情筋が感情を表出しているのかもしれず、また瞳孔の奥の水晶体のさらに奥にある網膜に走る無数の毛細血管の脈動が感情の興奮状態を表出するのかもしれず、そんなことを
      の右手が私の意に反して無理矢理上のほうへと引きあげられていたのでございます。

 ち か ん
 で す こ
 の て で
 す

 電車はいままさに次の駅のホームへとすべりこんでいくタイミングであった。かの女子高校生がそのタイミングを見計らっていたことは明らかであった。私の思考は停止していた。いや、実際には停止していたわけではない。脈絡のある思考が失われていたというべきだろう。私の思考の道すじは脈略のあるストーリーを失い、意味を失っていた。思考が脈略を失ったとき、人は自意識を失う。自分になにが起こっているのかわからず、また自分が何者なのかもわからなくなる。私の右手は女子高校生につかまれていた。女子高校生は私の右手をつかんで肩より高く持ちあげていた。持ちあげたこの手が「ちかん」であると叙述していた。私の手はちかんなのか。ちかんとはなんなのか。なにをもって私の手はちかんと定義されるのか。
 私のまわりがざわめいている。電車はまさに駅のホームに停車しようとしている。電車のドアが開こうとしている。乗客のひとりがいう。こいつを警察に

       突きだすんだ。おれがいっしょに行ってやるよ。若い男の声だ。もうひとりがいう。私も行ってあげる。若い女の声だ。私はふたりの男女に両側からそれぞれ腕をつかまれ、開いたドアから電車の外へと連れだされる。
 電車のドアの外は駅のホームの上であった。駅のホームはまだ真新しい。数年前に路線の複々線化のために駅と線路が高架になり、駅のホームも新しく作りかえられた。どの駅も似たような風景になり、駅名のプレートを確認しなければ


             どの駅なのかわからない



 私たちの、私たちというのは私と私の右手をつかんだ女子高校生と私の両腕をつかんだ男女ふたりの計四人であるが、その私たちの背後で電車のドアが閉まる。振り返ると

      ドアのガラス越しに好奇の色を浮かべた乗客たちの視線が私たちに向けられている。視線が横すべりを始める。ゆっくりと横にすべっていき、しだいに速度をあげる。視線は私の視線から遠くはなれ

  見えなくなる。電車がハイブリッドモーターの音を高めながら       速度をあげる。八両編成の電車が
                ホームから離れていく。一瞬

   最後尾の車両の最後尾の窓から上体を半分のぞかせた車掌と視線が合い、パチン

            という音が聞こえたような気がするが、もちろんそれは錯覚で

         引きこまれるような風圧が私を線路側へわずかに押しやる。


 いい天気だ。


 真っ青な空がホームの上を覆う屋根の間から見える。それを見て、私は記憶を訂正する。あの日が梅雨時のむしむしした日かもしれなかったという記憶は間違いであった。からっと晴れた夏至に近い初夏の日であった。真っ青な空には真っ白な積雲が綿菓子のようにぽこぽこぽこぽこぽこぽこぽこぽこぽこぽっと浮かんでいる。綿菓子の手前を電車の架線が何本かまっすぐに横切っている。雲の背後を架線とは鋭角をなす角度の白い直線が横切っている。飛行機雲だ。飛行機雲だ。私は夏の空が好きだ。私は夏の空が好きだ。私の生まれた土地は田舎の山間部だったが、その夏の空も好きだった。私は夏の空が好きだ。飛行機雲だ。私が生まれたのは田舎のほうの、山が谷でくびれ、せせらぎが川となって平野へと流れこむ、その出口のところだ。小さな村となだらかな山があって、人々は長い年月をかけて山と折り合いをつけながら、段々畑や田圃を作ってきた。私が生まれたのは、コブシや桜が終わり、藤や桐が薄紫色の花を咲かせるころ、山吹が山裾の小道を黄色く彩るころだった。雪解けの名残り水が田に導かれて水平に広がり、空を映してぬるむと、白鷺が冬眠からさめた蛙をついばみ、子どもらはスカンポを噛みながら畦道を駆け抜ける。蛇口のパッキンを買わなければ、と私は思いだす。

2010年12月18日土曜日

沈黙の朗読——記憶が光速を超えるとき(1)

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----- 朗読パフォーマンスのためのシナリオ -----

 私はあの日、あの日というのがいつのことなのか定かではないのだが、夏至を迎えたばかりのように思うし、あるいは梅雨時のむしむしした日だったようにも思うが、とにかく暑苦しかったことだけは確かだったあの日、私がいつものように家を出ようとすると妻が帰りに忘れずにあれを買ってきてねといい、私はそのことがなんのことなのかわからなくて、ところで妻の名前はなんだっけ、間違えて呼んだりしたらとんでもないことになるぞと考えながら、とりあえずおまえと呼ぶ事にしようと決めて、あれってなんだっけなおまえとたずね返すと、私の、名前を思いだせないままの妻は、あらいやだあなたあれほど何度もたのんでたのにだから心配だったのよまた忘れるんじゃないかってと、いつまでも肝心のことを答えようとしないまま私をぐちぐちとなじりつづけるものだから、私の胸のなかにはなにかしらよどんだもの、まるで雨の日の増水した川にひっかかっている流木に腐った葉やらスーパーのレジ袋やら破れたTシャツやらコンドームやらがからみつき茶色くよどんでいるような光景が生まれ、私はなにかをいいかえそうと口をひらくのだがそこから出てくる言葉は私の灰色の大脳皮質までは浮かびあがって来ず、先に私の、名前を思いだせないままの妻が私をぐちぐちとなじるその言葉のつづきで、洗面所の蛇口のゴムのパッキンを買ってきてなおしてくれるっていってたじゃないほらいくらきつく締めてもぽたぽた水が止まらないのをこんなの直すのわけはないといったのはあなたよ覚えてるでしょう、といわれてみればたしかにそのようなことをいった覚えがあるような気がしてきたが、その記憶は本当に私の記憶なのだろうか、それともだれかから、いやつまり私の、名前を思いだせないままの妻からいわれて植えつけられた記憶なのだろうか、あるいは夢で見たことを現実の記憶と思いこんでしまったのだろうか、それだとしたら私の、名前を思いだせないままの妻の記憶も私の夢の記憶を共有しているということになってしまい、それは理屈にあわないというか現実的ではないような気がするが、その時はもちろんそんな考えを振りはらい、とにかく私の、名前を思いだせないままの妻の要求は私に伝えられたわけだからいつもどおり家を出て仕事に向かうことに決めて、わかったよおまえ帰りがけには忘れないように蛇口のパッキンを買ってきて洗面所の水漏れを直してやるからといい残して駅に向かったあの日、あの日というのがいつのことなのか定かではないのですが、夏至を迎えたばかりのように思うし、あるいは梅雨時のむしむしした日だったようにも思いますが、とにかく暑苦しかったことだけは確かだったあの日、ホームにはいつものように、いつもというのがいつのことをさしているのやら自分でもさだかではないまま申しておりますが、ホームにはいつものようにサラリーマンやらサラリーウーマンやら女子高校生やら老婆やらがごったがえしながら電車の到着を待っておりましたあの日、私は私の前にいた女子高校生の短いスカートからのびたむちむちした太ももに視線を落としながら、なぜ女子高校生はたくさんいるのに男子高校生はあまり見かけないのだろう、それは私が女子高校生についつい目が行ってしまい彼女らにばかり注意をひかれてしまうせいであって、男子高校生も確かにいるのに私の視線が彼らを素通りし、結果的に彼らは私にとって存在しないと同様のことになっているという理由からだろうかなどとかんがえておりましたところへ、あっけなく電車が人々をなぎ倒さんばかりの勢いでホームへ、いや正確にいえばホームの間に平行に敷かれた二本のレールの上へと進入してきて、停止線を越えてオーバーランすることもなく、ちらと見えた運転士は私と同年輩くらいの中年男性のようであり、たぶんベテラン運転士でありましょう、すでに何千回となく同じ場所同じ時間に同じように電車を停止させてきたことだろう経験に裏打ちされた一見やる気のない沈鬱な表情を私にかいま見せ、そういえば私はいったい何歳なのだろう、あなた、何歳に見えますか、私?
 エアが抜ける音がする。ぷしゅーうううドアが開く。降りる人はあまりいない。ひとり。ふたり。さんにん。そのくらい。木を植えた人は降りたのか? 降りる人を待ちかねたように、ホームにたまっていた人々はにじにじとホームと電車の間の隙間をまたぎ越え、押し合いへし合い、車両に乗りこんでいくのであります。私もスカートからのびたむちむちした太ももを持つ女子高校生のあとにつづいて車両に乗りこんでいったのであります。
 背後からぎゅうぎゅうぎゅうと車両のなかほどへと押しこまれていきながら、私は私の背中を押しているこの感触が男性のものか女性のものか無意識にさぐっていることに気づくが、私の背中の右の肩甲骨の上のほうに強くあたっているひどく角ばったものはほぼまちがいなく背の高い大柄な男性の拳の甲から手首の関節の外側あたりで、それがあまりに硬くてとんがっているものだから私は痛くてしかたがないのを振り返って文句をいうわけにもいかなくてがまんしながら、同時に私の前にいる小柄な女子高校生に自分の身体をあまりに強く押しつけて密着してしまわないように気をつけているのは、あながち私の気の小ささばかりではないであろう社会的に外部強制された内部要因なのだろうけれど、私は気の小さい人間と人からいわれたことはあるだろうかいやないと思うけれど、しかし正直にいえばどちらかというと気の小さい人間ではあろうと自分では思えるその証拠に、人から頼まれごとをしてそれが自分には不向きな仕事であったり気の向かないことであったりしてもきっぱりといやとはいえないところがあって、そのせいであとあと不愉快な思いをしたり、結局頼まれたことが片付かなくて相手にまで不愉快な思いをさせて信頼を失ってしまったりといったことが子どものころからたびたびあったことを思い返せばそのとおりであるということができるし、いまもまさに私の半分ほども体重がないだろう小柄でひ弱そうな女子高校生を相手に狐の前を通り抜けようとしている兎のごとくびくびくしながら必死に足を踏ん張って身体が密着しないようにこらえていると、発車の合図のピロピロと気の抜けた音楽が鳴り終わりぷしゅーうううとドアが閉まりがたんういぃぃぃんと車体と駆動モーターの音を立てて電車が動きはじめ、密着しあった人々は慣性と加速度の物理法則にしたがっていっせいに進行方向とは逆方向に向かって身体を押し寄せられ、どこかで悲鳴があがるのが聞こえた。
 加速度のおかげで、私の身体は女子高校生の身体からやや離れる。が、ほっとしたのは一瞬にすぎない。加速度で電車の後ろ方向に押しつけられた人々の圧力が、その反動で前方向にすみやかにもどってくる。そして前よりも強く私の身体は女子高校生の身体に押しつけられてしまう。私は左の手に鞄をさげている。鞄は密着した人の身体にはさまれて、しっかり握っていなければどこかに持っていかれそうだ。私は鞄を左の手でしっかりと握っている。右手のことを忘れていた。私は自分に右手があるということを忘れていた。そうなのだ、私は時々、自分に右手があることを忘れてしまうことがある。私に忘れられた右手は存在しないのとおなじだ。切断された私の右手。人は二度死ぬといったのはだれだったか。最初の死は肉体の死。二度目の死は人々から忘れられたとき。これをいったのはだれだっけ。アボリジニの言葉だったか、あるいは仏教の言葉か。それにならえば、私の右手はしゅっちゅう死んだり生き返ったりしているわけだ。ははははは。
 そんなこというなら、最近かけはじめた老眼鏡だってしょっちゅう死んだり生き返ったりしているぞ。ははは、ははは。おっと、右手だ。私の右手。存在を忘れていた私の右手を生き返らせねばならない。私の右手。いったいどこにあるのか。まさか家に置き忘れてきたわけではないだろうな。
 もちろんそんなはずはなく、私の右手は私の右の鎖骨と肩甲骨の延長線上にある上腕骨の関節の部分で靭帯やら筋肉やらら血管やらららリンパ節やららららら神経やららららららによって接続され右肩にぶらさげられているわけで、なにも持っていない右手は下向きになった腕の先に電車の床に向かってくっついているはずなのを私は知覚することによって生き返らせようとするとき、なにかがその知覚の働きをさえぎろうとしているのを感じそれはなにかと思えば大脳皮質のもっとも奥まった部分にしまいこまれてたったいままで一度も意識の表面に浮上することのなかったひとつの記憶であり、それはまるでマルセル・プルーストが紅茶に浸して柔らかくなったプチット・マドレーヌ、プチット、プチット、プチット・マドレーヌ、プチット、プチット、プチット、プチット・マドレーヌ、プチット             マドレーヌの一切れを口に含んだ瞬間に遠い過去の失われた時をよみがえらせたかのような異常な作用が私の前腕部にも起きたかのようで、そのとき私はひとりのタイムトラベラーとして一匹の犬を抱いていた。

2010年12月16日木曜日

特殊相対性の女(3)

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----- 役者と朗読者のためのシナリオ -----

〔ト書き〕
 役者、ステージに戻ってくる。

「彼はけっして眠らない。
 彼はけっして眠らない」

〔ト書き〕
 長めのピアノ演奏。

 彼女はようやく、階段をのぼりきって、灯台のてっぺんの部屋にたどりつく。

「これが私の部屋。私の居場所」

 粗末な椅子とテーブルと、何年も火をいれていない暖炉と、横になるとギシギシいう木のベッドがある。
 ベッドの上にはランプがさがっている。
 彼女は自分がどこにいるのか知らない。彼女は自分が島の岬の突端の灯台のてっぺんに住んでいると思っている。

「私は今夜も窓辺に出て、あの人のために明かりを灯す」

〔ト書き〕
 朗読者、立ち上がり、ステージ上手に立つ。役者はそれと対極のステージ下手に立つ。お互いに遠く見合う形。
 以下、おなじテキストをふたりで読む。

 私はこの島の最後の灯台守で、あの人の船はこの明かりをめざしてやってくる。こんなちっぽけな蝋燭の明かりでも、あの人はきっと見つけてくれるはず。クリスマスまでには必ずここに来ると約束してくれたんだもの。
 長年、孤独な島の生活を続けているせいで、私の身体はすっかり弱ってしまった。以前は島のまわりを駆けたり、散歩したり、食料品や薪を集めることもできたのに、いまは自分の脚で立つこともできない。筋肉が萎縮する病気――なんていったっけ――それに違いないといったのに、だれも信じてくれなかった。ただ年寄りになっただけだといわれた。ひどい人は鏡をみてごらん、自分がいかに年をとったかよくわかるはずだよ、その醜く皺が寄り集まった顔を自分の目でよく確かめてごらん、なんてことをいう。そもそもおまえは灯台守なんかじゃない。ここは島なんかじゃなく、都会のまんなかの高層マンションの一室だろう……
 私をこまらせるためにそんなでたらめをいう。人はどうしてだれかにそれほどつらくあたることができるんだろう。
 私が灯した蝋燭は、いかにもたよりなげにゆらめく。蝋燭の向こうには、窓をとおして果てしない世界が広がっている。私には見えないけれど、意味もなく増えた大勢の人々が、意味もなく暮らし、あくせく働き、喜びあい、いがみあい、ののしりあい、抱き合い、そして生まれては死んでいく。私もそのひとりには違いなくて、そんななかにたったひとりで灯台を守っている私の姿は、まるでいまここに灯されたたよりない蝋燭の明かりそっくりだ。
 でも、世界がいかに大きくて激しくてつらくても、私には自由がある。
 島から、いや、ともするとこの灯台から一歩も出ることのできない人間に自由なんてあるのかって? 旅することも、ディナーに行くことも、メリーゴーラウンドに乗ることも、若返ることも走ることも歌うこともできないこの私に、自由があるのかって?
 でもだれも知らない。私が毎夜、こうやって蝋燭に火を灯して灯台を守りながら自由に旅していることを。本当に足を痛めて旅に出かけることも、想像だけを見知らぬ土地にめぐらすことも、私にとってはもはやおなじことだ。私は毎夜、だれも行ったことのない場所に行き、だれも見たことのない光景を見、言葉も通じない人々と語りあっては笑い、食べたこともないおいしい料理をふるまわれ、そして聞いたこともないメロディを歌っている。そのことはだれも知らない。
 いや、あの人だけは知っているはず。クリスマスまでには必ずここに私を迎えに来てくれると約束してくれたあの人。あの人が来たら、私のすべてを聞いてもらいたい。だれも信じてくれなかった、だれも聞こうとしてくれなかった私の話。
 彼が来て、私の話を聞いてくれたとき、そうして初めて私の自由は完全なものになる。
 私は彼といっしょにここから飛びたつだろう。鳥になって彼とともに大空へと飛んでいくだろう。
 私は灯台守。この島の、最後の灯台守。
 今夜も窓辺に出て、あの人のために明かりを灯す。

〔ト書き〕
 以下、朗読。
 役者はその場を離れ、ふたたび客席をぐるりとまわってくる。その間にキッチンのほうで生卵をひとつ受け取ってくる。

 彼女は物音で目がさめる。最初はなんの音なのかわからなかった。ラジオのダイアルが合わないときのようなザアッというノイズのような音。
 ベッドのなかで目をあけ、音の正体をたしかめようとする。右側の壁が四角くぼんやりと白くなっている。四角いのは窓枠で、夜明けが近くて窓の外が白んでいるのだとわかる。そして音は雨の音なのだった。あまり長く降っていなかったので、雨がどんな音を立てるのか忘れてしまうところだった。
 もう九月だというのに、からっからに干上がったフライパンの上みたいな、流しこんだ油すら焼きあがってしまったような猛暑がつづいてた。ときどき雲が集まってきて、空が暗くなり、そして真っ黒になり、手をのばせば届きそうなほどの低いところまで雲のかたまりが降りてきても、はぐらかすみたいに雨は降ってこなくて、砂漠に放り出された裸足の女のように手をむなしく差しのばしたりしてみる日々がつづいてた。それなのに、いま、こうやってあっけなくザアッとやってきた。
 風雨にあおられたカーテンがバサバサと揺れた。いけない、雨が吹きこんでる。
 彼女はいそいでベッドから降りると、裸足のまま窓際に駆け寄る。吹きこんだ雨で窓枠と床がびしょ濡れになっていた。それでも彼女はひさしぶりの雨に喜びを感じた。
 海はまだ薄暗いのと雨のせいで見えない。昨夜もあの人は来なかったけれど、彼女は信じている。クリスマスまでにはきっと帰ってきてくれるはず。
 この雨も彼の頭上に降り、海や乾いた大地をおおい、世界を包みこんで降っている。
 そうだ、と彼女は思いだす。鶏小屋に行って、玉子を取ってこなければ。
 彼女は衣服を着替え、白いスニーカーをはいて部屋を出る。

〔ト書き〕
 役者が戻ってきて、ステージ中央に立つ。
 生卵を捧げ持って客席に見せたあと、ゆっくりと落とす。

(おわり)

2010年12月15日水曜日

特殊相対性の女(2)

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----- 役者と朗読者のためのシナリオ -----

「どうして彼はわたしを選んだのだろう、とよく考える。あるいは、どうしてわたしは彼に選ばれたのだろう、と。
 わたしは、ドジでわがままな女だ。とりたてて美人でもなければ、スタイルもよくない。背も高くないし、顔はソバカスだらけだ。
 わたしの毎日は、失敗の連続だ。
 ヤカンを火にかけていたことを忘れて、黒コゲにしてしまう。ホットケーキを引っくりかえそうとして、床に落としてしまう。
 トーストはかならず、バターのついたほうを下にして落としてしまう。洗い物ではかならず、コップを割ってしまう。ご飯は、硬すぎるか、柔らかすぎるようにしか炊けない。掃除機を振りまわしては、花瓶を割ってしまう。読んでいる本にはソースをこぼし、新聞にはコーヒーをぶちまけてしまう。買ってきた卵はかならず割ってしまうし、豆腐はきっとくずしてしまう。階段ではつまずく。キーをつけたまま、車のドアをロックしてしまう。キャッシュカードはどこかに置き忘れる。財布は電話ボックスに忘れてきてしまう。セーターを洗えば、ツーサイズも縮めてしまう。こんなわたしを、どうして彼は選んでくれたのだろう」

 畑から林のなかを抜けて岬の突端の灯台へとつづくぬかるんだ道を彼女はとぼとぼと歩いてもどりながら彼のことをかんがえ、そして両手で抱えている玉子を入れたカゴに目を落とす。
 ふと、立ちどまる。
 玉子をひとつ取ってみる。白くて、まだあたたかい。殻も柔らかくて、いまにも割れてしまいそうだ。
 そっと頬にあててみる。
 自分もこの玉子みたいに生まれたてだったらいいのに、と思う。しかし彼女は、自分がその玉子にそっくりで、うりふたつで、まだ生まれたてといっていいほどであることには、気づいていない。

「彼はいう。そんなことを気にすることはないよ。そんなつまらないことを。きみにはもっと大切な、すばらしいことがあるんだから、と。
 そんなことって本当だろうか。
 うたがうわたしの顔を、彼はじっと見つめているばかりだ」

〔ト書き〕
 次の朗読テキストと役者セリフは、同時に読む。からまったり、交互に会話するように読んだり。二回、くりかえす。一回めは役者は上手側で、二回めは下手側で。

 ぬかるんだ道を灯台へと戻っていきながら、彼女は時空を超える。季節は春から夏の盛りをすぎ、秋へとすぎていく。秋はさらに死の冬へと向かっていく。道のぬかるみは量子の不確定性を増加させ、時間の進行エントロピーを増大させる。
 歩きながら急に彼女は身体の衰えをおぼえる。若いころはあれほど張りのあった筋肉が、いまはしわだらけの皮膚におおわれ垂れている。水たまりを避けるために歩幅を多く取ろうとして、しかし水たまりにスニーカーを突っこんでしまう。自分の足が思ったより遠くに届いていなかった。白いスニーカーはさらに泥水で茶色く汚れる。この汚れはもうどうやったって落とすことはできない。泣きたいのを通りこして、笑いだしたくなる。

「彼に会っていなかったら、わたしはどうなっていただろうか、とよく考える。わたしのような女をつかまえていてくれる人は、彼のほかにいただろうか。
 幼いころからわたしは、まぬけな女だった。おまけに神経質で、すぐに興奮する。
 せっかく旅行に連れていってもらっても、つまらなそうにだまりこくっているかと思えば、急におうちに帰りたいとぐずりだす。話しかけられても返事はしないし、近所の人にも挨拶はできない。毎日のようにいじめられて帰ってくるし、そのくせ熱があってもかくして学校に行こうとする。好き嫌いははげしいし、気にいらない服は絶対に着ようとしない。宿題は忘れる。せっかくおみやげに人形をもらっても、気にいらなければ押入の奥に隠してしまう。彼に会っていなかったら、わたしはどうなっていたのだろう。わたしが日々しでかすことの後始末を、彼はきちんとやっていってくれる。彼がいなければ、わたしはいったいどうしていいのかわからない」

〔ト書き〕
 役者、客席にはいっていく。

 ぬかるんだ道を、彼女は八十歳を超えてようやく抜けだすことができた。

「わたしが眠りにつくとき、彼が眠っているのを、わたしは見たことがない」

 灯台の、なかに入る木の扉は、とても重くて、湿っている。

「わたしが眠りにつくとき、彼はいつも目をさましている」

 緑青が浮いている真鍮の取手をガチャリと押しさげ、扉を手前に引く。

「わたしが目をさますとき、彼はもう目をさましている。わたしが目をさましたとき、彼が眠っているのを、わたしは見たことがない」

 灯台のなかは薄暗く、光の施設のくせに光を拒絶しているようにすら見える。

「わたしがふと夜中に目をさましたとき、彼はきっと起きている。わたしが夜中に目をさましたとき、彼が眠っているのを、わたしは見たことがない」

 薄暗い灯台のなかに足を踏みいれると、最初に見えるのは壁にそって上へと伸びている螺旋状の階段だ。

「そんなとき、わたしは彼にたずねる。あなたは眠らないの? と」

 階段の奥にはキッチンや食料倉庫があり、彼女はそこに取ってきたばかりの玉子を置きに行く。

「彼はこたえる。ああ、ぼくは眠らないのだ、と」

 玉子を置いた彼女は、階段のところに戻り、それを一歩一歩のぼり始める。

「わたしは彼にたずねる。あなたはどうして眠らないの? と」

 筋肉が衰えた私は、階段の一歩をのぼるにもとても時間がかかる。右足の膝をゆっくりとあげ、つま先を階段の上に乗せる。

「すると彼はこたえる。きみを見ているのだ、と。きみを見ていなければならないから、ぼくは眠らないのだ。ぼくはきみを見ていなければならないから、けっして眠らないのだ」

 つま先が段に乗ったら、右足に体重を乗せて力をこめる。膝の痛みをこらえながら、ゆっくりと身体を上に引きあげる。

「きみはなにも心配することはない。なにも気にしなくてもいいんだ」

 どうしてこんなに筋肉が衰えてしまったんだろう、と彼女はかんがえる。ついさっきまで彼女は14歳で、学校でいじめられることを気にしながら、鶏の世話をしていたというのに。でも、だれだって歳は取るし、運が悪ければ病気になる。いや、病気になるのは運とは関係がないことかもしれない。

「ぼくはけっして眠らずに、ここにこうやっているから。わたしは彼のその言葉を信じることができる」

 彼女は一歩一歩、息をあえがせながら、階段をのぼっていく。
 いつの間にか夜が近づいている。
 でも、彼は眠らない人なのだ。

2010年12月14日火曜日

特殊相対性の女(1)

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----- 役者と朗読者のためのシナリオ -----

〔ト書き/ここは読まない〕
 舞台上の装置は、下手側に置かれたグランドピアノと、中央前方に置かれた椅子のみ。
 後方の壁は映像投影用の壁面を兼ねる。そこへプロジェクターでスティル映像が投影される。朗読者と役者は投影光とときに重なることがあるが、かまわない。
 映像は客入れのときから投影されているが、舞台と客席の明かりであまり目立たない。

〔ト書き〕
 朗読とピアノ、板付き。
 客電、落とす。
 舞台照明、落とす。映像が壁面に浮び上がる。その前に朗読が座っている。
 役者、上手より舞台へ。
 ピアノ演奏。
 ピアノが終わったら、役者、上手側で。

「もう九月だというのに、からっからに干上がったフライパンの上みたいな、流しこんだ油すら焼きあがってしまったような猛暑がつづいてた。ときどき雲が集まってきて、空が暗くなり、そして真っ黒になり、手をのばせば届きそうなほどの低いところまで雲のかたまりが降りてきても、はぐらかすみたいに雨は降ってこなくて、砂漠に放り出された裸足の女のように手をむなしく差しのばしたりしてみる日々がつづいてた。それなのに、今朝。そう、今朝。まだ日も出ない時間。あっけなくザアッとやってきて、開けっ放しの窓際がびしょぬれになってしまった。でもうれしくて、朝の鶏の餌やりに出たとき、買ってもらったばかりの真っ白なスニーカーを泥のあぜ道でよごしてしまった。
 この汚れはどうやったってもう取れないって知ってる。
 泣きたい気分」

〔ト書き〕
 役者、下手側へ。
 役者がひとりで女を演じ、朗読がト書きの部分を読む。舞台上には役者と朗読とピアニストがいるけれど、朗読はあたかも舞台の外側にいるみたいにテキストを読む。

「歯をくいしばる。治療をほったらかしにしてある奥歯が痛む。母にもらった歯の治療代は、全部たこ焼きを買うのに使ってしまった。自分が食べて、それからクラスメートにもふるまった。その日一日、いじめられずにすんだ。
「風邪じゃないんだから。虫歯は自然に治ったりはしないんだからね、絶対に」
 母がいう。そのとおりだろう。でも、知ったことじゃない。まだ十四でしかない彼女には、手のつけようがなくなった虫歯を抱えている自分の姿なんて、想像もつかない。
 知るもんか」

 灯台が立っている岩場に打ちあたる波しぶきは、短かった夏のきらめきをすでに失い、これからすばやくやってくる冬の陰をもうちらつかせはじめている。のぞきこめば、海中の岩場は深く切れこんで、暗く冷たい世界への魅惑をたたえている。彼女がいつからそこに住んでいるのかは知らない。今朝も彼女はいつものように灯台の頑丈な木戸を押しあけ、外に出てくると、木戸が風でバタンと閉じてしまわないように片手で押さえてゆっくりと閉めながら、もう一方の手で帽子を押さえる。木戸を閉めると、その手でスカートの裾を押さえる。岩場の上に立っている灯台からは頼りない小道が灌木の林のなかへとつづいている。明け方前にやってきた激しい通り雨で、小道はぬかるんでいる。彼女は水たまりを避けながら道を急ぎ、灌木の林を抜けて畑へと出る。
 いまは日はのぼっているが、海面をおおったもやをすかしてぼんやりと直視できるほどの明るさしかない。

「意地になって歯を食いしばりながら、制服のスカートをめくりあげる。そうしなければ、鶏たちにスカートを汚される。鶏の世話を終えてから制服に着がえればいいのはわかっている。でも、そうすると学校に遅刻する。遅刻常習者のリストにあげられている彼女は、もうこれ以上遅刻するわけにはいかない。それならば早起きすればいいのに。どうしても早起きできない。いつもギリギリまで布団にしがみついている。今日もそうだ。明け方見た、彼の夢のせいだ。夢のなかであこがれの彼は、今日もまたあのいじめっ子の女と手をつないで歩いていた。
 彼の手。
 死ね、女」

 畑は灌木の林と、赤松林とに囲まれたちっぽけな空き地にある。松林は大昔に植えられたもので、彼女がここにやってきたときにはすでに荒れ放題だった。畑も手がつけられないほど荒れていたが、それでも一本、二本と畝を作り、作物を植え、草を刈るうちに、いまでは少しは畑らしくなっていた。畝はいま、五本ならんでいて、あと二、三本も収穫すれば終わりになるとうもろこしと、収穫が終わったゴーヤの蔓の固まりが、縮れ毛の女の雨上がりの長い髪のようになってわだかまっている。モロッコ豆の蔓もはびこっているが、これはまだまだ収穫できる。
 畝の端には金網で覆われた鶏小屋がある。彼女が近づいていくと、餌の予感に鶏たちがものすごく興奮して鳴き声をあげる。粗末な扉をぎしぎしあけて小屋にくぐり入ると、鶏たちはところかまわず羽ばたきしながら走りまわる。

「死ね、女」

 餌箱の近くにいた一匹をけとばしてから、彼女は飼料の袋の中身をさかさまにぶちまけた。粉が舞いあがって、制服の上着を白くよごす。
 いそいでかかえてきたカゴに今朝の玉子を拾いあつめていく。
 いくつか玉子を集めた彼女は、鶏小屋を出てようやく一息つく。
 木立の上に輪郭のぼやけた太陽が見える。その前をウミネコがせわしなく羽ばたきながら横切っていく。

「手にまだ粉がついていた。余計に上着が白くよごれてしまった。なにかをしくじって、その失敗を取りかえそうとして余計に傷口を広げてしまう。私の人生はその連続だ。いままでもそうだったし、これからもきっとそうなんだろう」

 季節はすでに秋に差しかかっているが、長くつづいた強い日射しのせいで、盛りをすぎた畑の作物も、畝にそって伸び放題になっている雑草も、葉をカサカサと枯れさせてうなだれている。やがて作物も雑草も茶色く枯れはてていく。だから雑草がはびこってももう抜く気はない。夏前はあれほど抜いても抜いても生えてくる雑草に手を焼いていたというのに。
 彼女は畝のあいだを通って灯台のほうへと戻っていく。そしてふと、彼のことをかんがえる。クリスマスまでには必ず戻ってくると約束して去っていった彼。
 彼が去っていった方角を、彼女はながめて目をほそめる。ウミネコはもう見えなかった。そのかわり、はるかかなたを漁船が一隻、ぽつんと孤独に横切っていくのが見える。それがどんな船であろうと、ちっぽけな漁船であろうと貨物船であろうと、巨大なタンカーであろうと、いつも彼のことを思いだしてしまう。あの漁船はどこへ行くのだろうか。これから漁に出るのだろうか。それとも漁からもどってきたところなのだろうか。何人乗っているのだろうか。船員は若いのだろうか、あるいは歳を取っているのだろうか。
 彼が去ってから何年も、何十年もたったような気がする。クリスマスまでには必ず戻るといって、自分の船に乗り、南の水平線のかなたへと消えていった彼。いまごろどこでどうしているだろうか。

2010年10月6日水曜日

イカ墨はえらい

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #76 -----

  「イカ墨はえらい」


 イカ墨のスパゲティ、好きだけど、
 イカ墨ってなんだ?
 イカ墨のリゾットも好きだけど、
 イカ墨ってなにもの?
 イカ墨っていうくらいだから、イカのなかにあるんだろう。
 たしかにイカをさばくと、真っ黒い墨が詰まった袋が出てくる。
 包丁で切ると、ドロッと墨みたいなのが出てくる。
 これを使ってイカ墨のスパゲティを作ってみようと思ったこともあるけれど、
 とてもじゃないが少なすぎて料理には使えない。
 料理に使うなら、
 市販のイカ墨ペーストを使う。
 僕が知ってるのはレトルトパックになっているやつか、缶詰のやつ。
 イカ墨はうまい。
 なんでだろう。
 イカは墨をどうやって作ってるんだろう。
 イカは墨になにを詰めこんでるんだろう。

 タコも墨を吐く。
 敵に襲われたら吐く。
 イカと同じだ。
 イカ墨とタコ墨は違うのか、同じなのか?
 違うとしたらどう違うのか?
 墨汁みたいだけど、墨汁とどう違うのか。
 墨汁は人間が作る。
 墨汁は原油などを燃やしたときに出るススが原料。
 イカ墨はなにが原料なんだ?
 そもそもイカやタコはなぜ墨を吐く?

 もちろん敵から逃げるためらしい。
 しかしイカとタコの墨の役割は違うらしい。
 タコの墨は拡散する。
 イカの墨は固まる。
 タコは敵の視界をふさいで、そのスキに逃げる。
 イカは墨で自分の分身を作って、敵にそっちを与えてから逃げる。
 イカの分身は食べるとうまい。
 イカの分身だから。
 だから、イカ墨はうまい。
 イカ墨はタコ墨の三十倍うまいらしい。
 つまりアミノ酸の分量がね。

 イカやタコの墨の成分は、セピオメラニンというメラニンの一種だ。
 イカ墨はセピオメラニンにマグネシウムやカリウムがくっついた塩類化合物になっていて、
 粘り気がある。
 ブッと排出されると、固まって、イカの形みたいになる。
 敵はそれに注意を奪われて、イカを捕りにがしてしまうというわけ。
 タコ墨は同じセピオメラニンでも、
 チロシンというアミノ酸が酸化酵素によってできたもので、
 敵を麻痺させる特殊な成分が含まれている。
 これで煙幕を張って逃げるというわけ。

 イカ墨の主成分は、
 ムコ多糖類とか、アミノ酸の一種のタウリンでできている。
 ムコってなんだ? ヨメ多糖類もあるのか?
 ムコとは動物の体内で遊離複合体または蛋白複合体の形で存在する多糖類の総称。
 なんのこっちゃ。
 鼻汁とか痰もおなじものらしい。
 ペッ。

 ついでにネットで調べたら、
 イカ墨パウダーというものが売られていた。
 さっそく注文してみた。
 着払い。
 まだ届かない。
 届いたらなにを作ろうか。
 まずはやっぱりイカ墨スパゲティ。
 それからイカ墨リゾット。
 イカ墨カレーも作ってみたい。
 イカ墨おでんなんてどうだろう。
 イカ墨トンカツ、イカ墨味噌汁、イカ墨マヨネーズ。
 いろいろ作れそう。

 イカ墨ってなんてえらいんだ。
 イカ墨のことをかんがえるだけでこんなに楽しくなるなんて。
 そうだ、イカ墨小説を書いてみよう。
 イカ墨の歌も作ろうか。
 イカ墨の帽子やイカ墨のセーターも作ってみよう。
 イカ墨のコンドームとかイカ墨のティッシュペーパーも作ってみよう。
 イカ墨カーで外出しよう。
 イカ墨パソコンで仕事しよう。
 イカ墨ベッドで寝よう。
 イカ墨ってなんてえらいんだ。

2010年9月30日木曜日

ゼータ関数の非自明なゼロ点はすべて一直線上にある

(C)2010 by MIZUKI Yuu All rights reserved
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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #75 -----

  「ゼータ関数の非自明なゼロ点はすべて一直線上にある」


 僕がいる。
 僕は見る。
 君が来る。
 僕は聴く。
 僕は知る。
 君が泣く。
 僕は書く。
 君が取る。
 僕は折る。
 僕は蹴る。
 君が去る。
 僕は立つ。
 僕は行く。
 僕は寝る。
 君が揺れる
 僕は照れる。
 私は食べる。
 私は飲みこむ。
 私は食器を洗う。
 君はお茶をいれる。
 私はコーヒーを飲む。
 私は新聞を広げて読む。
 君は窓を開けて外を見る。
 君はどこに行くのと尋ねる。
 私はどこに行きたいのと聞く。
 僕たちは手をつないで街を歩く。
 おだやかな風が僕たちを包みこむ。
 風はユリノキの葉をざわざわ揺らす。
 揺れる木々の葉の間に青い空が見える。
 僕たちは手をつないだまま空を見上げる。
 青い空の向こうには漆黒の宇宙空間がある。
 僕たちは一緒に夜の空を見上げるのも好きだ。
 星座の名前を全部は知らないけれど星が好きだ。
 僕たちはカフェの椅子に座って街行く人々を見る。
 ベビーカーを押す女性と孫の手を引く老女が通った。
 僕はいまは遠くに住んでいる息子のことを思いだした。
 僕はテーブルの上にスケッチブックを広げて街を描いた。
 急いでやらなければならない仕事があることを知っている。
 いまは仕事のことは考えずに君とこうやってすごしていたい。
 僕たちがいるこの街や人々や風や光を感じながらすごしたい。
 僕が幸せなのは君と僕がこの世界のなかに包まれているから。
 どうして詩や歌詞は「君」と「僕」しか出てこないのだろう。
 いずれ君も僕もここにいる人々も街も姿を変えていくだろう。
 変わらず永遠に存在しつづけるものはこの世にはなにもない。
 すべては永遠に姿を変えながら存在しつづける法則しかない。
 ゼータ関数の非自明なゼロ点はすべて一直線上にあるらしい。

2010年7月12日月曜日

コップのなかのあなた

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #74 -----

  「コップのなかのあなた」


 コップで水を飲もうとして、ふとかんがえた。
 このなかに、あなたはいるだろうか、と。

 生物学的な意味では、あなたはもういない。
 もう死んでしまったのだから。
 葬式も出したし、死亡届も出した。
 でも、死ってなんだろう。
 あなたという形はなくなってしまった。あなたを形作っていた血や肉や骨は消えてしまった。でも、どこへ?

 わたしは動かなくなってしまったあなたが、棺桶にいれられ、葬儀のあとに焼却炉にはいるのを見ていた。
 あなたはそのなかで焼かれ、煙と水蒸気になって煙突から立ちのぼり、あとにはわずかばかりの灰と骨が残っていた。
 あなたは水蒸気と二酸化炭素といくらかのミネラル分に分解され、世界のなかに散らばっていってしまった。
 だとしたら、いま、ここに、わたしの手のなかにあるコップの水のなかに、あなたの一部はいないだろうか。

 計算してみよう!
 仮にあなたの成分が、水分が60パーセント、脂肪が20パーセント、タンパク質が15パーセント、ミネラルが5パーセントだったとする。
 ややこしいので、いまは水分だけに着目する。
 あなたの体重は60キロだった。60000グラム。なので、あなたの水分は36,000グラム。
 真水 H2O の分子量は18グラムパーモル(g/mol)だから、あなたの水分子量は2,000モル。
 分子の数はアボガドロ定数により 6.023の23乗×2,000モル、すなわち1,724,748,800,000,000,000,000個。
 一方、地球の表面積は約510,000,000,000,000平方メートル。
 あなたの水分子数を地球の表面積で割れば、338,186,039個。
 つまり、1平方メートルあたり338,186,039個のあなたの水が、地表には存在しているということになる。
 きっとこのコップの水にも、あなたがたくさんはいっているにちがいない。

 わたしのこの身体だって、数か月で分子は全部入れ替わっている。
 形を保っているように見えて、じつは流れる河のように動いている。
 わたしのように見えるものは、じつは岸辺。流れる水を通すだけの形。わたしはたえず動いている。
 鳥がやってきて、さえずり、愛を交わし、巣を作り、ヒナを育てて、また去っていく、そんな樹木のようなもの。樹木も何十年、何百年とそこに立っているように見えて、ずっとおなじものはなにもない。

 わたしのなかにあなたがいて、あなたのなかにもわたしがいる。
 世界のなかにわたしもあなたもいて、つながっていて、すべてとつながっていて、ゆたかに流れている。
 そんなことを思いながら、わたしは幸せな気持ちでコップ一杯の水を、あなたを飲んだ。

2010年6月8日火曜日

おんがくでんしゃ

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #72 -----

  「おんがくでんしゃ」


逆爪できて痛い金色カバン膝に乗せた女短いぱんつに斜めチェックのストッキング太もも太くて膝開いてる両肘締めて両手でケータイ見る男トレンチ着て颯爽と立つ女背を反らし胸突き出して文庫本見てる毛糸の帽子すっぽりかぶった男本読みながらケータイ打ってる目白池袋たくさん乗り換えこんがらがったイヤホンのコードと格闘してるニキビいっぱいある女間隔調整のため停車いたします聴覚標識ぴよぴよぴよ右隣は黒づくめの女布カバーかぶせた文庫本読んでるすり切れた布古い型のiPodよろける白いパンプス膝の裏の青い血管The next station IS Ootsuka午後の外光にてらてらしてる床ゴムのにおい目を閉じる初老のサラリーマン光る胸のバッジバッジは彼の心臓動脈硬化起こしかけてる血管詰まってこんがらがるイヤホンのコード耳に突っ込んだまま寝てる高校生頭グラグラしてる西日暮里背もたれに背付けず前のめりで漫画読む中年男方角間違えて乗った山手線どうせそのままぐるりと回るご注意ください暖房と冷房の中間で迷ってる空調ユラクチョーは有楽町当駅は当面禁煙ですあ全面か左隣の若い男寝言いう

2010年6月7日月曜日

ふとんたたき

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #72 -----

  「ふとんたたき」


 ベランダの戸をあけたら
 前の家のおばちゃんが物干し場でふとんをたたいていた
 力まかせに腕を振りあげ振りおろし
 ふとんたたきをふとんにたたきつけている

 ガシャンガシャンガシャン
 ガシガシ
 ガシャンガシャンガシャン

 おばちゃんの指はぎしぎしと力をこめて
 ふとんたたきを握りしめている
 ふとんたたきはいまにも折れそうだ
 ふとんたたきを振りあげるおばちゃんの腕はもりもりと力がはいり
 ふとんたたきはいまにもひんまがりそうだ
 振りあげたときにはがしんと屈曲し
 振りおろすときにはびしんと伸張するおばちゃんの腕関節は
 油が切れているのかぎいぎいと耳障りな音を立てる

 ガシャンガシャンガシャン
 ギシギシモリモリギイギイ
 ガシャンガシャンガシャン

 おばちゃんの意志とは関係なく
 あたえられたプログラムにしたがっておばちゃんの腕は動く
 ぼくの腕だってどうだろう
 あたえられたプログラムで動いているのだ

 なにもかんがえずに箸を持つ
 なにもかんがえずに空き缶を投げる
 なにもかんがえずにペンを走らせる
 なにもかんがえずにキーボードをたたく
 なにもかんがえずにきみに触れる

 取りもどすのだ、おばちゃん!
 あたえられたプログラムをゴミ箱にいれ
 自分の腕と身体を取りもどすのだ!
 自分の意志で動く自由な腕と身体を取りもどすのだ!

2010年6月6日日曜日

飛んでいたころ

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #71 -----

  「飛んでいたころ」

いまはもう飛ぶことはできないけれど
まだかすかに
飛んでいたころの記憶がよみがえる

梅丘二丁目の信号から北にむかってまっすぐ降りてきて
駅前の通りと小田急線の高架をくぐった先にある信号
嵐の桜井くんがよくタクシーをつかまえようとしている交差点
渡って右手に北沢警察、左手に光明養護学校が見える通り
晴れているとぱあっとそらが広くなるあたり

飛んでいたころの眼球の感触
飛んでいたころの皮膚の感触
飛んでいたころの四肢の感触

あのとき
指は翼を引くロープをしっかりと握りしめていた
足先はバランスを取るためのベルトにひっかけていた
身体は体重移動のためにそりかえらせていた

頬が風を切り
ときおり水滴がひたいを打った
眼球の乾燥を防ぐために涙があふれ
遠くの積乱雲がぼやけた
陽に灼けることなど気にもしなかった

いまはもう飛ぶことはできないけれど
飛ぶことを思うことはできた
頬が風を切った
積乱雲を見た
風に揺れる森を飛びこえた
やがて年老いて動けなくなり灰になってしまっても
飛ぶことの思いはまだ駆けめぐっていただろう

2010年6月5日土曜日

身体のなかを蝶が飛ぶ

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #70 -----

  「身体のなかを蝶が飛ぶ」


 あるいていたら
 蝶がぱちんとひたいにあたった
 どこに行ったのかとふりかえってみたが
 どこにもいない
 おかしいなとおもったら
 ひたいからそのまま私の身体のなかにはいっていた

 あたまのなかにちょうちょがいる
 ひらひら飛びまわっている
 せまいだろうに
 たのしそうに飛びまわっている
 おおきな蝶じゃない
 でも
 どんな色の蝶なのか
 どんな模様の蝶なのか
 私には見るすべがない
 なにしろ
 私のなかにいるのだから

 ちょうちょはあたまから身体のなかへと飛んできた
 口をあけたままにしていたら
 そこから外に出ていってくれたのかな
 とおもったけれど
 もうおそい

 ひらひら
 ひらひら
 蝶が私のなかを飛ぶ
 まるで自分のもののように私の身体のなかを飛ぶ
 まるでだれのものでもない自由な空を飛ぶように
 ひらひら
 ひらひら
 飛んでいる
 ひょっとして
 と私はおもう
 私は私の身体が私のものだとおもっていたけれど
 本当は私の身体は私のものではなくて蝶のものなのかもしれない
 私の身体は私のものではないのかもしれない
 私の身体は自由な空とおなじように
 だれのものでもないのかもしれない
 私はかってに自分の身体の内側と外側を区切って
 内側を自分のものだと思っていたけれど

 私のなかに蝶がいる
 楽しそうに飛んでいる
 そんなに楽しいのかい、きみ?
 じゃあ好きなだけいていいよ
 ずっとそこで遊んでいていいよ
 私も私の身体の内側が自分のものだなんて思うのは
 よすことにしよう

2010年6月4日金曜日

自転車をこぐ

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #69 -----

  「自転車をこぐ」

自転車をこぐ
きみのもとに向かう
風が前から吹いている

自転車をこぐ
きみのもとから帰る
風が後ろから吹いている

自転車をこぐ
きみのもとに向かう
風が横から吹いている

自転車をこぐ
買物をしてから帰る
風がななめ後ろから吹いている

風はいろいろな方向から吹いてくる
ときには風のない日もある
寒い風
熱い風
いろいろある
自転車をこいでいると
それがわかる

自転車をこぐ
きみのことをかんがえながらこぐ
風が右から吹いている

自転車をこぐ
子どもが陰から飛びだした
あわててブレーキをかけた
子どものお母さんが
ぼくをにらみつけた

自転車をこぐ
きみのことをかんがえていたのに
大事なことをかんがえていたはずだったのに
どんな大事なことだったのか
忘れてしまった

自転車をこぐ
風はいろいろな方角から吹いてくるけれど
とりあえずはそれ以上のことはおこらない
ぼくはきみのことをかんがえながら
自転車をこぐ

自転車をこいでいても
地震は起きないし
(わからないけれど)
洪水にもならない
(わからないけれど)
機関銃の弾も飛んでこないし
(わからないけれど)
爆弾も破裂しない
(わからないけれど)
でも子どもは飛びだしてくる
(わからなかった)

自転車をこぐ
きみのことをかんがえながら
きみのもとに向かう
風が前から吹いている

2010年4月30日金曜日

コーヒー屋の猫

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  「コーヒー屋の猫」 水城雄


 十六歳まで生きて、とうとうこの夏、血管の病気で死んだクロという名前の猫の後継猫を探していたところ、コーヒー屋の納屋で近所の飼い猫がどうやら子猫を産んだらしいという。いいタイミングだ。
 家族に伝えたら、なんでもいいからもらって来いという司令が出た。なんでもいいったって……まあ、血統書付きの高級猫じゃなきゃ飼わないという主義でもないが。
 さっそくマスターと捕獲作戦を決行した。
 最初の日、昼間行ったら、母猫ががんばっていて、とても子猫に近づける雰囲気じゃない。おれは平気だが、マスターが、
「だめだよ。母猫がいるよ。怒ってるよ。すごい顔してるよ」
 青い顔をしてはしごの上からおれに報告した。
 翌日、母猫がいないはずだという夕方、二度目の捕獲作戦決行。
 たしかに、母猫はいないようだ。昨日見たのだが、母猫はきれいなキジ猫で、見るからに野趣あふれる顔つきと風情。あんたら、うちの子に手ぇ出したら、承知せえへんからな。クリちゃんという名前らしい。
 マスター、ふたたび、おそるおそるはしごに登り、子猫がいる段ボール箱を納屋の床に降ろしてきた。
 いたいた。6匹もいる。昨日、鳴き声を聞いた限りでは、1匹か2匹、せいぜい3匹だと思ったのに。生後2週間、体重300グラム弱といったところ。
 母猫似のキジがみっつ、黒いのがふたつ、そして白いのがひとつ。黒いのの一方は、このあいだ死んだうちのクロそっくりの模様で、まずこれをもらうことにした。
 猫はふつう、人間の子どもが嫌いだ。ところが、死んだクロはとても辛抱強い猫で、生まれたばかりの息子の子守りをよくしてくれた。まだ赤ん坊だった息子といっしょに、ゆりかごの中で寝ているクロの写真が残っている。
 子どもが生まれたときは、田舎ゆえか、猫についてずいぶんなことをいわれた。飼い猫に指を食いちぎられた子どもがいるとか、赤ん坊の匂いに寄ってきて顔をひっかいたりするとか、喘息になるとか。捨ててこいというまわりの声に抵抗するだけで、ひとエネルギーを消耗したものだ。
 連れて帰る猫の定員は2匹までと、家族からいい渡されてある。黒いののほかに、あと1匹。どれにするか。
 やはり、母猫似のキジがいいだろう。一番ツラ構えがよく、元気がよさそうなのを選んだ。残りの4匹は、かわいそうだがとても面倒見きれるものじゃない。このまま自立していくか、それともいいもらい手が現れるか。
 連れて帰った数日は、母猫恋しさに泣いてばかりいたが、やがて慣れた。まだ皿から飲めないので、哺乳瓶で4時間おきにミルクを飲んでいる。哺乳瓶にもだいぶ慣れた。育児は楽しい。
 息子はいま12歳。このチビたちが10歳になる頃には、おれが結婚して猫を飼いはじめた年齢になる。

2010年4月28日水曜日

死に向かう詩情

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #68 -----

  「死に向かう詩情」 水城雄


 そんなおおげさな、というけれど
 それをみんなはかんがえないわけじゃない
 そうばん完治するとわかってはいても
 そうとう長引けばふと気持ちに魔がさす
 風邪ひいたくらいでおおげさな、というけれど
 ふとかんがえるでしょ、あ・ん・た

 人身事故で遅れた電車
 待ち合わせの時間に間に合いそうもない
 いらつく身体をふとよぎる
 重い鉄のかたまりの感触
 ひ・と・た・ま・り・も・な・い・わ・な
 どん、ぐしゃ、ぶしゅ

 念のために、と抜かれた血
 午後には検査結果が出てますから
 月曜午後の医院の受付
 事務員のひそひそ話
 爬虫類じみた容貌の医者が眉をひそめる
 壁にはなぜかカラヤンの指揮姿の写真、で・か・い

 視界の端にふときざした影に
 気になって視線を向ければ
 白髪頭で頬肉のたるんだおっさんのしぼんだ姿
 これ、おれ?
 これ、おれ?
 おれ、これ?

 中学校のあたらしい温水プールは
 市民に開放されています
 一時間二百円
 卒業生たちがアルバイトで監視してます
 監視されてるのは腹のたるんだ老人たちと、おれ?
 AEDのテストは万全

 いいなあ歳とるって
 死ぬと思うから「詩情も湧く」のであります

2010年4月27日火曜日

階段

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #62 -----

  「階段」 水城雄


 世間ではまだぼくのことを探しているらしい。
 そりゃそうだろう。ある日、忽然と消えてしまったのだから。理由もなく。
 事故、自殺、ぼくに行動に関するいろいろな可能性が検討され、そのどれもが否定された。遺書もなく、遺体もない失踪。いなくなる直前まで部屋にいたことだけはわかっている。どこにも出かけた形跡がないこともわかっている。でも、突然、姿を消した。
 ぼくがいまでもここにいることを、だれも知らない。でも、ぼくは寂しくなんかない。なぜなら、ここには大勢の人がいるから。そう、あの階段からやってきた大勢の人が。

 あるとき、ぼくはふと思った。
「あれ? この階段って13段だったっけ」
 とんとんとんと階段をのぼる。とんとんとんと階段をおりる。そのたびにぼくは無意識に数を数えていた。子どものころからの癖なんだ。
「1、2、3、4、5、6、7、8、9、10、11、12!」
 そう、この古い木造アパートの階段は12段ある。玄関は靴を脱いで下駄箱に預ける方式で、だれが訪ねて来てもいまどき珍しいっていわれる。もちろん、便所も炊事場も共同。風呂は近くの銭湯。そしてぼくの部屋は二階にある八畳間。
 学校に近い街中にあって、それなのに家賃は3万円。いまどきありえない。
「1、2、3、4、5、6、7、8、9、10、11、12!」
 階段をあがりおりするときは、子どものころから無意識に段数を数える癖がついてしまってる。そしてこの階段はいつも12段。間違いなく12段。
 と思ったら、ある日、階段をのぼったとき、
「9、10、11、12、13……あれっ!」
 数え間違えたのか? そんなことありえない。だって、毎日毎日、日に何回も、何百日もこうやって数えながらのぼりおりしてたんだから。数え間違えたことなんて一度もない。
 ぼくはもう一度、数えながら、今度はゆっくりと階段をおりていった。
「9、10、11、12。なんだやっぱり数え間違えたのか」
 ちょっと変な気分でぼくは部屋にもどった。
 数日後、またそれが起こった。今度は階段をおりているとき。
「9、10、11、12、13……えっ!」
 ちょっと用事があって急いでいたんだけど、気になってぼくは階段をのぼりなおしてみた。
「9、10、11、12、13……」
 13段、ある。そんな馬鹿な。もう一度。
「9、10、11、12、13……」
 もう一度。
「9、10、11、12、13……」
 どこかが一段増えてる。
 ぼくはゆっくりと確かめながら階段をおりていった。
「いち、にぃ、さん、しぃ……」
 どこかが増えている。どこだろう。いつも見慣れている階段。でもいつもちゃんと見てなんかいない階段。どこかの段が、いつも見ていなかった段かもしれない。見たことのない段がどこかにあるのかも。
「ごぉ、ろく、しち」
 ふとぼくは違和感を覚えて、立ちどまった。
 この段? なんか変な感じがする。
 ぼくはしっかり確かめようと思い、少し腰をかがめてその段に顔を近づけていった。
 そのとき……

 世間ではまだぼくのことを探しているらしい。
 ここにはそうやって階段の隙間に落っこちてしまった人たちがたくさんいる。全然寂しくなんかない。

2010年4月26日月曜日

また君は恋に堕落している

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #60 -----

  「また君は恋に堕落している」 水城雄


 砂丘の風紋の先端に君は立っている。
 さかしまに。
 東の空はとっくに白みはじめていて、
 やがて夜が明けることを君はあせっている。
 西から吹くかすかな風。
 その風に含まれるわずかな湿り気。
 君の、毒を含んだ尖ったしっぽのふくらみが湿り気をとらえ、
 甘美な水滴の輝きを夜明けの光線の中に放つことを、
 君は夢想している。
 その水滴を口に運ぶことを夢想している。
 たった一滴の水で生きながらえることを夢想している。
 君は生きながらえ、彼女との恋を成就しなければならない。
 この砂丘に子を残すこと。
 それが君の使命なのだから。
 残された子はまた、君とおなじ使命を背負うのだろう。
 君は確かに選ばない。
 砂丘の風紋の先端にみっともなくさかしまに立たないことを。
 彼女との恋を成就しないことを。
 死を。
 君は確かに選ばない。

2010年4月25日日曜日

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #59 -----

  「亀」 水城雄


 もし。
 もし。
 もしもし。
 もうし、もうし。
 もしもし、亀よ。
 亀さんよ。
 まあ聞いてくれよ。
 俺ほど不幸な男はいねえって話よ。
 こう見えてもよ、俺も昔はけっこういい男だったんだぜ。
 いや、昔でもねえか。ほんのこないだまでだ。
 髪だってほんのこないだまでふさふさしてたし、黒々してたし、腰だってまっすぐぴんしゃんしてたし、女にだってもてたし、ちんぽも石みてえにかちんこちんだったさ。
 それがどうよ。ひでえ女につかまっちまって、あっという間にこのざまよ。
 まあ、多少はいい思いをさせてはもらったけどな。
 いわゆる、シュチニクリンってやつよ。
 毎日、飲めや歌えの、きれいなねえちゃんたちとはやりまくりいの、極楽みてえな日々だったな。ああ、そのときはたしかにそう思ってたさ。
 人間、目の前の快楽には弱いのよ。
 しかし、そんなことは長続きするもんじゃねえし、終わっちまえば快楽なんてのはむなしさが残るだけよ。わかるだろう、おめえ。
 わかるだろう、亀さんよ。
 しかも、箱をあけたらあっというまにこのざまよ。パンドーラ。
 なんのために生まれてきたんだろうなあ、人間って。
 どうして俺はこんなところにいるんだろう。
 なあ、亀さんよ。
 Why did I come here? てなもんよ。なあ、亀よ。
 Why did I come here?
 ホワイ・ディッド・アイ・カム・ヒア?
 ホワイ・ディッド・アイ・カム・ヒア?
 ホワイ・ディッド・アイ・カメ・ヒア?
 ホワイ・ディッド・アイ・カメ・ヒア?
 カメ・ヒア?
 カメ……?
 もしもし。
 もしもし。
 もしもーし!

2010年4月24日土曜日

歌う人へ

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #58 -----

  「歌う人へ」 水城雄


歌う人よ
幼い魂を
老いた魂を
迷える魂を
きみの声は震わせてきた
さやけき声も
力強きメロディも
私たちに届けられた
きみのために奏でるとき
こころは踊り出しそうになっていた
たとえ遠くに行こうとも
もう二度と会えないとしても
声を届けることを忘れないでほしい
きみの声が役目を持っていることを
多くの人に幸をもたらすことを

2010年4月23日金曜日

豆まき

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #57 -----

  「豆まき」 水城雄


 その男の子がどこからやってきたのか、村のだれも知りませんでした。男の子も話そうとしませんでした。
 ただ、男の子が心に深い傷を負っているらしいことは、みんなにもわかりました。なぜなら、男の子からは深い苦しみと悲しみが感じられたからです。
 いつもそうするように、村の人たちは男の子になにも聞かず、ただ黙ってご飯を食べさせ、子どものいる家に寝泊まりさせてやりました。
 そこは特別の、でもとても小さな、貧しい村でした。男の子ひとり、とはいっても、食べる口がひとつ増えたわけです。けれども誰も文句をいうものはありませんでした。

 村の子どもたちは小さながっこうに行っていました。しかし、みな貧しいので、がつこうの畑では作物を育てていました。畑の仕事もまた、勉強のうちだったのです。
 あの男の子も、家の子どもたちといっしょにがっこうに行きました。けれども、やっぱりなにもいいません。ただ黙って苦しそうに、窓から海を見つめているばかりです。
 ある日、村の子どものひとりが男の子にいいました。
「今日はみんなで豆を植えるんだ。きみも来いよ」
 男の子はしばらくかんがえていました。実のところ、男の子は畑仕事なんか一度もしたことがなかったのでした。
「それって楽しい?」
 と、男の子が聞きました。男の子が口をきくのを初めて聞いて、村の子どもはびっくりしてしまいました。でも、しばらくしてから、正直に答えました。
「ううん、それほど楽しくない。どちらかというと大変だ。喉は乾くし、腰も痛くなる」
「そんなつらい仕事にぼくを誘うのはなんで?」
「それは……」
「仕事の人数が増えると楽になるから?」
「それもあるけど、それだけじゃないよ」
「じゃ、なんで」
「なんでなのかうまく説明できないよ。なんとなくきみもいっしょに豆を植えたらどうかなと思って。それに、豆まきは苦しいばかりじゃないよ」
「なにがあるの?」
「芽が出たときはうれしいんだ。大事に育てて、豆がなったら、いろいろと役に立つ。きみは豆を食べたこと、ある?」
「もちろんあるよ。馬鹿にしてるの?」
「してないよ。でも、たとえば味噌って豆から作るってことを知らない子どもはいるからね」
「そうなの?」
 男の子は目を丸くしました。どうやら、その男の子も味噌が豆からできることを知らなかったらしいのです。
「そうだよ。ほかにもいろいろ作れるよ」
「なにが作れるの?」
「畑に来れば教えてあげるよ」
 そこで男の子は豆を植えるために畑に行ってみることにしました。

 子どもにとってそれはけっこうつらい仕事でした。
 畑を耕してから、灰をまき、畝を作ります。一本ずつ丁寧に土を盛りあげ、上をたいらにします。水はけがよくなり、豆がよく育ちます。作業もしやすいのです。
 きれいに畝ができたら、小指くらいの太さの棒で穴をあけ、そこに豆を二、三粒ずつまいていきます。
 男の子は、そんな面倒なことをせずに、いっぺんにバラバラっとまいてしまえばいいのに、と思いました。けれど、それではだめなのだそうです。
「鳩がみんな食っちゃうし、育ちも悪くなるからね。それに、余分な豆はとってないから、一粒も粗末にしちゃいけないんだ。一番いい豆だけを種に残して、あとは食べるために使うから」
 豆は味噌を作る材料になるばかりでなく、豆腐やきな粉や醤油や納豆まで作れるんだということを、男の子は初めて教わりました。そればかりか、おいしい枝豆だってこの豆のことだったのです。
 男の子も豆まきに加わりました。
 いわれたとおり、棒で土の表面に穴をあけ、豆粒を落としてから、土を丁寧にかぶせます。そこに豆を埋めたことが鳩にばれないようにしなければいけません。
 とても時間がかかる作業でした。隣の畝で作業をしていた村の子どもは、どんどん進んでいってしまいます。
「ぼくって、のろまだね」
「慣れてないからだよ。でも、きみのほうが丁寧だね。ほら。早いよりも丁寧なほうがいいよ。それに、慣れればきみだって早くなるよ」
「そうかな」
 額から汗が伝って、鼻の頭からぽたぽたと落ちました。ひどく喉が渇き、腰も痛くなってきました。
 顔をしかめながら立ちあがって、腰をのばすと、隣の畝の子もちょうど立ちあがって、腰をとんとんとやっているところでした。
 目があって、なんとなくふたりは笑いあいました。
 村の子も腰が痛いんだ、きっとぼくとおなじように喉も乾いているんだろうな、と男の子は思いました。そういえば、村の子の名前はなんていうんだっけ?
 男の子は笑顔になったことが照れくさくなり、顔をそらしました。すると、視線の先には、初夏の陽光を受けてきらきらと光る海が、どこまでも広がっているのでした。

2010年4月22日木曜日

人像(ヒトガタ)

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #56 -----

  「人像(ヒトガタ)」 水城雄


 おまえら
 よく聞け
 そこでなまぬるい飲み物をすすっているおまえら
 おれの話をよく聞け
 絶望と苦しみの果てに
 おれはここに来た
 おまえらが想像もつかないような苦しみを経て
 死神の顔すらおがめずに
 おれはここにいる
 想像力を持てという
 そんなものは糞だ
 人がその硬いがんじがらめに組みあわさった丸い骨の内側で想像しうるものなど
 糞だ
 幻想だ
 本物の苦痛と絶望をおまえらは知らない
 半年も洗っていない衣服の肌触りも
 ひび割れた爪先で触れるコンクリートの感触も
 おまえらは知らない
 吐きかけられる煙草臭い痰の味も
 死んだ目を持つ高校生の柔らかいスニーカーで蹴りつけられる痛みも
 おまえらは知らない
 しかしおれはおまえらにいおう
 おれはおまえらよりはるかに生きている
 しょせん人は虫だ
 本能と欲望を詰めこんだ身体のなかでもがき苦しんでいる虫だ
 いくらそこから自由になろうとあがいても
 すべては嘘だ
 幻想だ
 糞だ
 おまえらは人の形をした虫だ
 おれのように
 虫のように
 生きてみろ

2010年4月21日水曜日

しょぼんでんしゃ

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #67 -----

  「しょぼんでんしゃ」 水城雄


 しょぼんとした大人を
 たくさんのせて
 電車が行ったりきたりする

 大人になってから
 しかられる
 大人になっても
 しかられると
 かなしい

 自分のせいで
 しかられる
 大人になっても
 自分のせいで
 しかられる
 しかられると
 かなしい

 しかられて
 かなしくなると
 しょぼんとする
 大人になっても
 しょぼんとする
 キョセーをはって
 ギャクギレしてみせたりしても
 ほんとはしょぼんとしてる

 たくさんのしょぼんとした大人が
 電車に乗って
 行ったりきたりしている
 それがジンセーだ
 とかいったりして

2010年3月21日日曜日

共同存在現象

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #66 -----

  「共同存在現象」 水城雄


 星のない暗い空をぼんやりながめていたら
 死が降りてきた。
 コンビニのレジ打ちのパート女性を見ていたら
 海に包まれた。
 きつい上り坂を自転車で立ちこぎしていたら
 時が止まった。

 一様に
 ひとしく
 一定の濃度で流れていると信じている
 時間というもの。

 空間の変化は時間の変化をあらわさない。

 花粉症でひとつ大きなくしゃみをしたら
 夜が止まった。
 子どもがブランコから落っこちるのを見たら
 青春が消えた。
 熱いお湯に足先をおそるおそるつけたら
 超新星が生まれた。

 私のおこなうことが
 純粋持続のなかにあり
 おこない自体が私の全人格であるとき
 私は自由を表現する

 指を開いたら
 花が死んだ。
 手をあげたら
 地軸がずれた。
 目を閉じたら
 無限が分離した。

2010年3月20日土曜日

群読シナリオ「Kenji」(3)

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----- 群読のためのシナリオ -----

  群読シナリオ「Kenji」(3)


  ピアノ、入る。
  ここから「ポエティック・インプロヴィゼーション」。
  ピアノとBとCによる。

(B・静)
 わたくしといふ現象は
 仮定された有機交流電燈の
 ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
 風景やみんなといつしよに
 せはしくせはしく明滅しながら
 いかにもたしかにともりつづける
 因果交流電燈の
 ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

(C・静)
 これらは二十二箇月の
 過去とかんずる方角から
 紙と鉱質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
 みんなが同時に感ずるもの)
 ここまでたもちつゞけられた
 かげとひかりのひとくさりづつ
 そのとほりの心象スケツチです

(B・動)
 これらについて人や銀河や修羅や海胆は
 宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら
 それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
 それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
 たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
 記録されたそのとほりのこのけしきで
 それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
 ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
 みんなのおのおののなかのすべてですから)

(C・動)
 けれどもこれら新生代沖積世の
 巨大に明るい時間の集積のなかで
 正しくうつされた筈のこれらのことばが
 わづかその一点にも均しい明暗のうちに
  (あるいは修羅の十億年)
 すでにはやくもその組立や質を変じ
 しかもわたくしも印刷者も
 それを変らないとして感ずることは
 傾向としてはあり得ます

(B・静)
 すべてこれらの命題は
 心象や時間それ自身の性質として
 第四次延長のなかで主張されます

(C・静)
 大正十三年一月廿日
 宮沢賢治

  演奏、そのまま星めぐりの歌(Bパターン)へ。
  歌と演奏。
  一番が終わったら、ピアノBGMへ。
  全員、始めの位置へ。Aだけ中央へ。

A「夜だかは、どこまでも、どこまでも、まっすぐに空へのぼって行きました。もう山
 焼けの火はたばこの吸殻のくらいにしか見えません。よだかはのぼってのぼって行きま
 した。
 寒さにいきはむねに白く凍りました。空気がうすくなった為に、はねをそれはそれはせ
 わしくうごかさなければなりませんでした。
 それだのに、ほしの大きさは、さっきと少しも変りません。つくいきはふいごのようで
 す。寒さや霜がまるで剣のようによだかを刺しました。よだかははねがすっかりしびれ
 てしまいました。そしてなみだぐんだ目をあげてもう一ぺんそらを見ました」

  全員、ハミングで星めぐりの歌を静かに。
  歌いながら、全員Aのまわりに集まってくる。ひとかたまりになる。

A「そうです。これがよだかの最後でした。もうよだかは落ちているのか、のぼってい
 るのか、さかさになっているのか、上を向いているのかも、わかりませんでした。ただ
 こころもちはやすらかに、その血のついた大きなくちばしは、横にまがっては居ました
 が、たしかに少しわらって居(お)りました。
 それからしばらくたってよだかははっきりまなこをひらきました。そして自分のからだ
 がいま燐(りん)の火のような青い美しい光になって、しずかに燃えているのを見まし
 た。
 すぐとなりは、カシオピア座でした。天の川の青じろいひかりが、すぐうしろになって
 いました。
 そしてよだかの星は燃えつづけました。いつまでもいつまでも燃えつづけました。
 今でもまだ燃えています」

  星めぐりの歌二番を歌手が歌う。
  歌が終わったら、かたまったまま、礼。
  終わり。

2010年3月19日金曜日

群読シナリオ「Kenji」(2)

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----- 群読のためのシナリオ -----

  群読シナリオ「Kenji」(2)


A「(つづけて)すると胸がさらさらと波をたてるように思いました。けれどもまた
 じっとその鳴ってほえてうなって、かけて行く風をみていますと、今度は胸がどかどか
 となってくるのでした。きのうまで丘や野原の空の底に澄みきってしんとしていた風
 が、けさ夜あけ方にわかにいっせいにこう動き出して、どんどんどんどんタスカロラ海
 溝の北のはじをめがけて行くことを考えますと、もう一郎は顔がほてり、息もはあはあ
 となって、自分までがいっしょに空を翔けて行くような気持ちになって、大急ぎでうち
 の中へはいると胸を一ぱいはって、息をふっと吹きました」

歌手「(呼びかけるように)ケンジ」

  ピアノ音(ジングル風一発音)。

全員「(動きながら)雨ニモマケズ
 風ニモマケズ
 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
 丈夫ナカラダヲモチ
 慾ハナク
 決シテ瞋ラズ
 イツモシヅカニワラッテヰル」

D「霧がじめじめ降っていた。諒安は、その霧の底をひとり、険しい山谷の、刻みを
 渉って行きました。(これはこれ 惑う木立の 中ならず しのびをならう 春の道
 場)。どこからかこんな声がはっきり聞えて来ました。諒安は眼をひらきました。霧が
 からだにつめたく浸み込むのでした。全く霧は白く痛く竜の髯の青い傾斜はその中にぼ
 んやりかすんで行きました。諒安はとっととかけ下りました。そしてたちまち一本の灌
 木に足をつかまれて投げ出すように倒れました。諒安はにが笑いをしながら起きあがり
 ました。いきなり険しい灌木の崖が目の前に出ました。諒安はそのくろもじの枝にとり
 ついてのぼりました。くろもじはかすかな匂を霧に送り霧は俄かに乳いろの柔らかなや
 さしいものを諒安によこしました。諒安はよじのぼりながら笑いました。その時霧は大
 へん陰気になりました。そこで諒安は霧にそのかすかな笑いを投げました。そこで霧は
 さっと明るくなりました。そして諒安はとうとう一つの平らな枯草の頂上に立ちまし
 た」

全員(D以外)「(動きながら)一日ニ玄米四合ト
 味噌ト少シノ野菜ヲタベ
 アラユルコトヲ
 ジブンヲカンジョウニ入レズニ
 ヨクミキキシワカリ
 ソシテワスレズ」

D「そこは少し黄金いろでほっとあたたかなような気がしました。諒安は自分のからだ
 から少しの汗の匂いが細い糸のようになって霧の中へ騰って行くのを思いました。その
 汗という考から一疋の立派な黒い馬がひらっと躍り出して霧の中へ消えて行きました。
 霧が俄かにゆれました。そして諒安はそらいっぱいにきんきん光って漂う琥珀の分子の
 ようなものを見ました。それはさっと琥珀から黄金に変りまた新鮮な緑に遷ってまるで
 雨よりも滋く降って来るのでした」

全員「(動きながら)野原ノ松ノ林ノ
 小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ」

D「(おっかぶせるように)いつか諒安の影がうすくかれ草の上に落ちていました。一
 きれのいいかおりがきらっと光って霧とその琥珀との浮遊の中を過ぎて行きました。と
 思うと俄かにぱっとあたりが黄金に変りました。霧が融けたのでした。太陽は磨きたて
 の藍銅鉱のそらに液体のようにゆらめいてかかり融けのこりの霧はまぶしく蝋のように
 谷のあちこちに澱みます。

全員「(動きながら)東ニ病気ノコドモアレバ
 行ッテ看病シテヤリ」

D「(おっかぶせるように)すぐ向うに一本の大きなほおの木がありました。その下に
 二人の子供が幹を間にして立っているのでした。その子供らは羅(うすもの)をつけ瓔
 珞(ようらく)をかざり日光に光り、すべて断食のあけがたの夢のようでした」

全員「(動きながら)西ニツカレタ母アレバ
 行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ」

D「ところがさっきの歌はその子供らでもないようでした。それは一人の子供がさっき
 よりずうっと細い声でマグノリアの木の梢を見あげながら歌い出したからです」

  全員、その場に静止して。
  偶然止まったその場所で。

C「サンタ、マグノリア、枝にいっぱいひかるはなんぞ」
D「南ニ死ニサウナ人アレバ、行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ」
歌手「天に飛びたつ銀の鳩」
D「北ニケンクヮヤソショウガアレバ、ツマラナイカラヤメロトイヒ」
C「セント、マグノリア、枝にいっぱいひかるはなんぞ」
D「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」
歌手「天からおりた天の鳩」
D「サムサノナツハオロオロアルキ」
A「マグノリアの木は寂静印です。ここはどこですか」
D「ミンナニデクノボートヨバレ」
C「私たちにはわかりません」
D「ホメラレモセズ」
C・歌手「そうです、マグノリアの木は寂静印です」
A「あなたですか、さっきから霧の中やらでお歌いになった方は」
C・歌手「ええ、私です。またあなたです。なぜなら私というものもまたあなたが感
 じているのですから」
A「そうです、ありがとう、私です、またあなたです。なぜなら私というものもまたあ
 なたの中にあるのですから」
D「クニモサレズ」
A「ほんとうにここは平らですね」
B「ええ、平らです、けれどもここの平らかさはけわしさに対する平らさです。ほん
 とうの平らさではありません」
A「そうです。それは私がけわしい山谷を渡ったから平らなのです」
B「ごらんなさい、そのけわしい山谷にいまいちめんにマグノリアが咲いていま
 す」
A「ええ、ありがとう、ですからマグノリアの木は寂静です。あの花びらは天の山羊の
 乳よりしめやかです。あのかおりは覚者たちの尊い偈(げ)を人に送ります」
B「それはみんな善です」
A「誰の善ですか」
B「覚者の善です。そうです、そしてまた私どもの善です。覚者の善は絶対です。そ
 れはマグノリアの木にもあらわれ、けわしい峯のつめたい巌にもあらわれ、谷の暗い密
 林もこの河がずうっと流れて行って氾濫をするあたりの度々の革命や饑饉や疫病やみん
 な覚者の善です。けれどもここではマグノリアの木が覚者の善でまた私どもの善です」
全員「サウイフモノニ、ワタシハナリタイ」

2010年3月18日木曜日

群読シナリオ「Kenji」(1)

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----- 群読のためのシナリオ -----

  群読シナリオ「Kenji」(1)

   原作:宮沢賢治/構成:水城雄


  出演 歌手
     ピアノ
     朗読A~D


  全員、音楽教室へ入場。
  ピアノ、中央。
  向かって左からA、D、ピアノをはさみB、C、歌手。
  歌手のみマイクスタンド使用。

  ピアノ音、先行(ジングル風一発音)。

歌手「(生徒たちに呼びかけるように)ケンジ」

  ピアノ音、もう一度。

全員(歌手も)「雨ニモマケズ、風ニモマケズ。雨ニモマケズ、風ニモマケズ。雨ニモマ
 ケズ、風ニモマケズ……(何度もくりかえす)」

  ひとり抜け、次のセリフに移行していく。
  またひとり抜け、ひとり抜け、というふうに、気がついたら全員、次のセリフに以降
  している。

全員「どっどどどどうど、どどうどどどう。どっどどどどうど、どどうどどどう。どっど
 どどどうど、どどうどどどう……(何度もくりかえす)」

  全員がそろったところで次第に声が小さくなっていく。
  そしてささやき声になり、

全員「どっどどどどうど、どどうどどどう。青いくるみも吹きとばせ。すっぱいかりんも
 吹きとばせ。どっどどどどうど、どどうどどどう」

  その間にA、中央へ(ピアノ前)。

A「先ごろ、三郎から聞いたばかりのあの歌を一郎は夢の中でまたきいたのです。
 びっくりしてはね起きて見ると、外ではほんとうにひどく風が吹いて、林はまるでほえ
 るよう、あけがた近くの青ぐろいうすあかりが、障子や棚(たな)の上のちょうちん箱
 や、家じゅういっぱいでした。一郎はすばやく帯をして、そして下駄(げた)をはいて
 土間をおり、馬屋の前を通ってくぐりをあけましたら、風がつめたい雨の粒といっしょ
 にどっとはいって来ました」
C「馬屋のうしろのほうで何か戸がばたっと倒れ、馬はぶるっと鼻を鳴らしました」
A「一郎は風が胸の底までしみ込んだように思って、はあと息を強く吐きました。そし
 て外へかけだしました。
 外はもうよほど明るく、土はぬれておりました。家の前の栗(くり)の木の列は変に青
 く白く見えて、それがまるで風と雨とで今洗濯(せんたく)をするとでもいうように激
 しくもまれていました」
C「青い葉も幾枚も吹き飛ばされ、ちぎられた青い栗のいがは黒い地面にたくさん落ち
 ていました。空では雲がけわしい灰色に光り、どんどんどんどん北のほうへ吹きとばさ
 れていました」
A「遠くのほうの林はまるで海が荒れているように、ごとんごとんと鳴ったりざっと聞
 こえたりするのでした。一郎は顔いっぱいに冷たい雨の粒を投げつけられ、風に着物を
 もって行かれそうになりながら、だまってその音をききすまし、じっと空を見上げまし
 た」

  ピアノ入る。
  A、元の位置へ。
  歌手、ピアノ横へ。
  星めぐりの歌(Aパターン)。

 あかいめだまの さそり
 ひろげた鷲の  つばさ
 あをいめだまの 小いぬ、
 ひかりのへびの とぐろ。

 オリオンは高く うたひ
 つゆとしもとを おとす、
 アンドロメダの くもは
 さかなのくちの かたち。

 大ぐまのあしを きたに
 五つのばした  ところ。
 小熊のひたいの うへは
 そらのめぐりの めあて。

  B、C、中央へ。
  歌と演奏が続く中で、セリフ入る。

B「この地図はどこで買ったの。黒曜石でできてるねえ」
C「銀河ステーションで、もらったんだ。君もらわなかったの」
B「ああ、ぼく銀河ステーションを通ったろうか。いまぼくたちの居るとこ、ここだ
 ろう」
C「そうだ。おや、あの河原は月夜だろうか」
D「そっちを見ますと、青白く光る銀河の岸に、銀いろの空のすすきが、もうまるで
 いちめん、風にさらさらさらさら、ゆられてうごいて、波を立てているのでした」
B「月夜でないよ。銀河だから光るんだよ」
D「ジョバンニは云いながら、まるではね上りたいくらい愉快になって、足をこつこつ
 鳴らし、窓から顔を出して、高く高く星めぐりの口笛を吹きながら一生けん命延びあが
 って、その天の川の水を、見きわめようとしましたが、はじめはどうしてもそれが、は
 っきりしませんでした。けれどもだんだん気をつけて見ると、そのきれいな水は、ガラ
 スよりも水素よりもすきとおって、ときどき眼の加減か、ちらちら紫いろのこまかな波
 をたてたり、虹のようにぎらっと光ったりしながら、声もなくどんどん流れて行き、野
 原にはあっちにもこっちにも、燐光の三角標が、うつくしく立っていたのです。遠いも
 のは小さく、近いものは大きく、遠いものは橙や黄いろではっきりし、近いものは青白
 く少しかすんで、或いは三角形、或いは四辺形、あるいは電や鎖の形、さまざまになら
 んで、野原いっぱい光っているのでした。ジョバンニは、まるでどきどきして、頭をや
 けに振りました。するとほんとうに、そのきれいな野原中の青や橙や、いろいろかがや
 く三角標も、てんでに息をつくように、ちらちらゆれたり顫えたりしました」
B「ぼくはもう、すっかり天の野原に来た。それにこの汽車石炭をたいていないねえ」
C「アルコールか電気だろう」
D「ごとごとごとごと、その小さなきれいな汽車は、そらのすすきの風にひるがえる中
 を、天の川の水や、三角点の青じろい微光の中を、どこまでもどこまでもと、走って行
 くのでした。
C「ああ、りんどうの花が咲いている。もうすっかり秋だねえ」
D「線路のへりになったみじかい芝草の中に、月長石ででも刻まれたような、すばらし
 い紫のりんどうの花が咲いていました」
B「ぼく、飛び下りて、あいつをとって、また飛び乗ってみせようか」
C「もうだめだ。あんなにうしろへ行ってしまったから」
A「カムパネルラが、そう云ってしまうかしまわないうち、次のりんどうの花が、いっ
 ぱいに光って過ぎて行きました。と思ったら、もう次から次から、たくさんのきいろな
 底をもったりんどうの花のコップが、湧くように、雨のように、眼の前を通り、三角標
 の列は、けむるように燃えるように、いよいよ光って立ったのです」

  音楽は途中でFO。
  別の音楽に変わる(器楽のみ)。

2010年3月2日火曜日

おまえの夏休みの宿題に父は没頭する

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----- Urban Cruising #7 -----

  「おまえの夏休みの宿題に父は没頭する」 水城雄


 宿題をほうり出して、おまえはいつものように遊びに出かけてしまった。
 どこに行ったのだろうか。おまえの父は、夏休み最後の日曜日、こうやっておまえの宿題をかたづけてやっている。

 いま、父の前には、おまえの宿題の材料がならんでいる。
 おまえの母が、つまりわたしの妻が、昨日、百貨店から買ってきたものだ。これらがはいっていたケースには、〈昆虫採集セット〉と書いてある。
 おまえの母はいったものだ。
「ねえ、あなた。あの子ったら、夏休みの宿題を全然やってないのよ」
 わたしは答えた。
「夏休みといっても、あと何日もないじゃないか。どうしてほうっておいたんだ」
 するとおまえの母親は非難がましく、あなたが宿題なんかほうっておけばいいっていったのよ、それを間に受けたのよあの子は、毎日毎日遊びまわってばかりいるんだから、あなたが悪いのよ、という。
 おおいにけっこう、とわたしはこたえる。
 そうとも。宿題なんかやらなくていい。見ろ。おかげで、どの子にも負けないくらいまっ黒に日焼けしてるじゃないか。
 そうよ。おかげでまっ黒で汚い格好をして、ガキ大将気取りで走りまわっているわ。勉強嫌いになって。出かけたら出かけたで、まっ暗になるまで帰ってこないし。ちょっとやりたい放題がすぎるんじゃなくて?
 子供はそれでいいんだ。元気なのが一番なんだ。
 あなたは自分があの子の面倒を見ないから、そんな無責任でいられるのよ。結局、たまった宿題を手伝ってやらなければならないのは、このあたしなのよ。
 宿題なんかなんだ。よし、わかった。わたしが責任を取ってやろうじゃないか。

 というわけで、父はいま、〈昆虫採集セット〉を前に、腕組みしているのだ。
 ガラス瓶の中には、おまえがかけずりまわって集めてきた名前も知らない虫ケラが、たくさんひからびているぞ。

 ガラス瓶をさかさにする。
 ひからびた虫たちが、新聞紙の上にころがり落ちてきた。
 いつなんだ、この虫を集めたのは、とわたしは妻にたずねた。
 妻は妻で、牛乳パックを利用して、なにやら工作をしているのだ。夏休みの工作とか昆虫採集といっても、親の宿題みたいなものだな、これでは。
 知らない、と妻がこたえる。だいぶ前なんじゃない。ずいぶん遠くまで自転車で取りに行ったみたいよ。
 わたしはピンセットで昆虫を転がしてみる。
 脚をちぢめて乾ききったカナブン。羽のかけた蝶、蝉、トンボ。足のちぎれたバッタ。
 あわれな犠牲者たち。おまえというハンターの獲物たち。
〈昆虫採集セット〉には、虫ピンや採集ラベル、コルクを貼りつけた箱などがふくまれている。
 わたしはカナブンのひとつをピンセットで押さえつけ、背中から虫ピンを突きさした。
 目の前にかかげ、ひとわたり観察してから、おまえの昆虫図鑑を広げる。
 そうか。カナブンというのはカブトムシの仲間なのか。コガネムシ科、カナブン。これだな。
 わたしは採集ラベルにボールペンで書きつける。
 採集ケースにラベルを貼りつけ、その上に虫ピンであわれなカナブンをとめた。
 あわれなカナブン。
 おまえはまだ帰ってきそうにない。
 いいとも。好きなだけ遊んでこい。もうすぐ夏休みは終りだ。

 ギンヤンマ。
 4月から10月に平地の池で活動する、か。産卵は、連結したまま植物の組織内に行なう。
 なるほど。そういえばつながったまま飛んでいるトンボを見たことがあるぞ。しかし、植物の組織内というのは、なんのことだろう。
 おまえはこのあわれなトンボをどこで取ってきたのだろうか。池といえば、たぶんあの池のことだな。父も子供のころ、あの池でフナやウグイを釣ったものだ。いまでも釣れるのだろうか。
 たぶん、無理だろう。池のすぐ横の崖の上に、大きな道路が通ってしまったからな。
 しかし、こうやって見ると、昆虫図鑑というものもなかなかおもしろいものだ。スズムシの飼い方か。わたしも飼ったことがあるぞ。縁の欠けた大きな壷を母親からもらい、キュウリやナスで育てたものだ。ニボシなんかもやったな。タンパク質の補給だとかいって。
 そういったことも、ここにちゃんと書いてある。なかなかいい本じゃないか。母に買ってもらったのか?
 その母がわたしにいう。
 あなた、宿題は進んでいるの? なんだかぼんやり本ばかりながめて。
 わたしはこたえる。
 おまえこそ、どうなんだ?
 あたしのほうはもうすっかり終りですよ。
 そうかい? で、なにを作ってやったんだ?
 風車ですよ。ほら、あのオランダなんかによくあるじゃない。子供が作ったってことにしなきゃならないから、あまり上手にならないようにするのに苦労したわ。
 よくいうよ、まったく。
 わたしはふたたび、昆虫の分類に取りかかる。

 外はそろそろ暗くなってきている。もうすぐおまえが帰ってくることだろう。まっ黒な顔と手足をして。
 そうして、甘えた声でいうことだろう。
 おかあさん、おなかすいた。
 と。

2010年2月26日金曜日

捨てる

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #55 -----

  「捨てる」 水城雄


 幻想と無意味な希望を捨て
 現実と真実を見据えて生きる
 自らの能力を過信せず
 しかし力のおよぶ限り尽くす
 自らの才を過大評価せず
 孤独に立ちむかうことを怖れない

 捨てよう
 どうせ読まない本を捨てよう
 古いマニュアルを捨てよう
 欠けた茶碗を捨てよう
 黴びた梅干を捨てよう
 二年前のドレッシングを捨てよう
 縮んだセーターを捨てよう
 たまった雑誌と古新聞を捨てよう
 鳴らないラジオを捨てよう
 乗れない自転車を捨てよう
 乾いた植木鉢を捨てよう
 破れた靴を捨てよう
 聴かないCDを捨てよう
 なんにつなぐかわからないACアダプターを捨てよう
 1ページしか書いていないノートを捨てよう
 片方しかない靴下を捨てよう
 10年前の年賀状を捨てよう
 古い恋人の写真を捨てよう
 日記を捨てよう
 しがらみを捨てよう
 プライドを捨てよう
 思い出を捨てよう
 過信を捨てよう
 欲を捨てよう
 名誉を捨てよう
 虚栄を捨てよう
 過去を捨てよう
 未来を捨てよう
 希望を捨てよう
 絶望を捨てよう

 それでも
 それはそこにいる
 どうしようもなく自分はそこにある

2010年2月25日木曜日

単独行

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----- Urban Cruising #2 -----

  「単独行」 水城雄


 山道にさしかかると、視界が緑におおわれた。
 エアコンをとめ、車の窓を開放した。
 草いきれ、木々の香り、谷川の音。そういったものがドッと車内に流れこんできて、思わず微笑してしまう。
 スピードを落とし、緑の空気を楽しみながら、ゆったりとハンドルを切る。
 ぼくは部長に休戦宣言をして、ここにやってきた。
 いや、ことによると、あれは部長にとって、ぼくからの宣戦布告だったのかもしれない。
 まあいい、そんなことは。いまぼくはひとりでここにやってきた。
 それでいい。
 一か月前の日曜日、すでにロケーションはすませてある。テントを張れそうな場所も見つけてある。
 ほんとうは、自転車か徒歩でここにやってきたかったのだ。が、もらった休暇が三日では、ぜいたくはいえない。それでもギリギリの線だ、と部長はいったものだ。いまの時期をなんだと考えているんだ。
 山道を走りはじめて約二十分、ぼくは目的の場所についた。
 いちおう舗装は完備しているが、道はほそくまがりくねっている。道の右側には、谷川が流れている。
 ぼくが車をとめたところは、ちいさなダムがあった。ダムで川がせきとめられ、上流は細長い湖になっている。雨があがって数日たっているため、水のにごりはとれていた。しかし、あたりには雑草がたくましく生い茂っている。
 ぼくは車から荷物を下ろすと、それを背にかつぎあげ、ダムを渡った。
 ダムの向こう側に、道路からはまったく見えず、それでいて湖の水面をすっかり見わたせる絶好の場所があるのを、すでに確認してある。
 そこでこれから三日間、すごすのだ。
 テントの中で。
 ひとりのぜいたくな時をすごす。

 二日めの朝、ぼくは川をさかのぼった。
 手に一本の竿を持って。
 大きな岩の上に腰をおろし、谷川の音を聞きながら、仕掛けを作る。
 川にはいり、岩を返して岩虫をさがす。
 見つけた岩虫は、口にくわえた笹の葉に貼りつけておく。そうすればいつでも餌が必要なときに、針にかけることができる。
 岩虫を針にとおし、流れがうずを巻いている深みにむかって、糸を投げこむ。
 糸を流しながら、岩かげに身体をひそませる。
 そうやって魚と知恵をくらべあっていると、日常のさまざまな思いが肩から抜けおち、身体が軽くなってくるのを感じる。
 ぼくは部長のことを考えた。
 この三日間の休暇を取るのに、彼とはひと悶着あった。なぜこの時期に休暇なんか、というわけだ。おまえ、いま会社がどういう状態なのかわかってるのか。
 わかっているとも。しかし、部長に、部下の営業成績しか頭にないような男に、ぼくのなにがわかる?
 まあいい。
 いまはぼくの時だ。
 日常からときはなたれた、ぼくの時間だ。
 会社も家庭も忘れ、いまは魚との知恵くらべに、うつつを抜かすのだ。
 いきなりラインが引きこまれ、棹が大きくしなった。グイと棹を立てる。針が魚の上顎にしっかり食いこむ感触が伝わってきた。
 魚め。勝負あったな。
 いや、まだわからないとも。勝負ははじまったばかりだ。
 いつの間にか、ぼくの身体の中に、漁師がすべりこんでいる。
 たけりたったやつ、大きなイワナが、銀色の身体をひらめかせて、水面を走った。

 星だ。
 星々だ。
 何年ぶりだろう、星を見るのは。
 確かに、仕事帰りに夜空に、星のまたたきを見ることはある。が、あれは星を見るとはいえない。仕事帰りに見る夜空は、狭く、暗い。屋根やアンテナや電柱やビルディングにかこまれ、ひどく視界が狭い。
 そして、暗い。
 いや、逆に明るいというべきか。
 つまり、街頭や家々の明かりが明るくて、星の光が暗いのだ。
 いまこうやって夜空をながめていると、街の中では見えないじつに多くの星が見える。
 それを見つめていると、すうーっと立ちくらみを起こしそうな感覚に引きこまれる。自分がまさに、この大地、地球という星の表面にへばりつき、星々の空間にただよっているのだ、という感覚。
 うん。この感覚。あいつにも味わせてたい。もうすぐ五歳になろうという、ぼくの息子。
 よし。今度はやつとふたりでここにやってこよう。
 ぼくがやつに伝えられることなど、たかが知れているが、その星々を見せるだけで、やつはぼくのなにかを理解するはずだ。ぼくの息子なのだから。
 明日はまた、家庭にもどる。
 いまのこの心を、そのまま持って帰れることができるだろうか。もしそれが可能なら、すごい土産になるぞ。そして語ってやろう、やつに。父がいかにしてテントをはり、いかにして火をおこし、いかにして魚と闘ったかを。
 そしてその次の日は、また仕事という戦場に出ていくのだ。
 部長め。ぼくを待ちかまえていることだろう。
 上等だ。やってやろうじゃないか。
 うむ。彼にもきっと、息子がいる。
 彼も彼なりに戦っているのだ。
 よし。彼に応えてやろうじゃないか。
 ぼくはテントにもぐりこむと、目をとじた。
 夜がぼくをすっぽりと、つつみこんだ。

2010年2月24日水曜日

A Flying Bird in the Dark

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #42 -----

  「A Flying Bird in the Dark」 水城雄


 鳥になりたいと思う。
 重力から解きはなたれ、ゴツゴツした地表を離れ、上昇気流に身をまかせてどこまでも飛んでみたいと思う。
 人はわたしのことを、幸せな女だという。たしかにそのとおりかもしれない。住む家にも食べるものにも不自由のない生活。家のローンはあるけれど、明日のお金の心配をする必要はない。毎月、きちんきちんと一定額以上のお金がはいってくる。
 結婚三年め。やさしくて、働き者の夫がいる。子どもがまだできないことが唯一の心配だけれど、それがなんだというのだろう。世間には子どものいない夫婦なんていくらでもいるし、いまのこの世に子どもを作ることのほうが、その子の将来をかんがえれば不安かもしれない。
 でも、わたしのこの、牢獄に閉じこめられているような気持ちは、いったいなんなのだろうか。わたしがわたしでないような、自由がなにもないような気持ちになるのはなぜなんだろうか。
 今日もわたしは朝六時に起きる。目覚まし時計の音で。遠い距離を通勤する夫に朝食を作るために。
 コーヒーと野菜ジュースとパンとベーコンエッグを作って、夫を起こす。新聞を読みながら、テレビニュースを見ながらわたしの作った朝食を食べた夫は、スーツに着替えて会社に出かける。わたしは玄関で夫にキスして送りだす。ときにはキスなんかしたくないときもある。でも、わたしはわたしの気持ちをいつわって、形だけのいつわりのキスを夫にする。それで夫が安心することを知っているから。
 いや、それで夫が本当に安心するわけでないことはわかっている。夫はただ、いつもがいつもであることを確認して、心の奥に不安をかかえながらもそれを無視する材料を得て家をあとにするだけ。それだけ。
 洗濯物を全自動の機械にほうりこみ、掃除をしたあと、テレビニュースを見ていると、アラブの女性が出てきた。チャドルで全身、頭から足まですっぽりと隠している。そして彼女は怒っている。アメリカがアラブ諸国の神を冒涜することに。信仰の自由を侵すことに。でも、彼女自身はアラブの宗教に彼女自身の自由を束縛されていはしないのか。
 わたしは宗教に自由を束縛されていないけれど、目に見えないものにがんじがらめにされているような気がする。自由に寝坊もできなければ、今日はキスしたくないといえないし、子どもなんか生みたくないと宣言することもできない。着る服はその日の気分で選んでいるけれど、結局はスカートの丈とか、流行の色とか、カジュアルすぎないかとか、なにかに束縛されているということではニュースに出ていたアラブ女性となにも変わらない。
 思いきり寝坊して、夫にキスもしなければ、ミニスカートで街を歩いて男たちの視線を集めてみたいというのは、結局はわたしのなかの妄想――印刷されたコミックのような想像の世界でしかない。
 洗濯物を干していると、ケータイが鳴った。
 結婚前に付き合っていたカレ。ケータイのメモリからなぜか消せずにいた。三年ぶり。
「元気?」
「うん」
「どう? ひさしぶりに会わない?」
 カレはまだひとりだと聞いている。会えばどうなるだろう。けっして幸福ではなかったけれど、幸福だったこともあるカレとのみじかい日々。
 あのとき、わたしには、まだ羽があったように思う。いまはもうその羽はない。
 いま、もう一度、羽を得たいと思う。カレとどうとかいうんじゃない。だれにもなにもいわれず、大地を離れ、自分の気持ちのおもむくままに空を飛ぶ。
 青空はもう無理だろう。せめて夜の、まっ暗な空のなかを、羽をひろげて気のむくままに飛ぶ自由を、わたしは渇望している。
 背をそらし、羽をひろげて、思いきり声をあげてみたい。

2010年2月23日火曜日

Airplane

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #41 -----

  「Airplane」 水城雄


 飛行機が乱気流に突っこんだ

 機体がゆれる
 上下にゆれる
 左右にゆれる
 ガタガタゆれる
 機内はとたんにアビキョーカン

 子どもがさけぶ
 女がさけぶ
 男がうめく
 みんな青ざめる

 客室乗務員がシートベルトの金具を握りしめる
 だれもが最悪の事態を予想する
 ばあちゃんがホトケの名をとなえる
 ぼくは安全のしおりをいまさらながらに確認する

 ぼくは頭のなかで遺書を書く
 お父さん お母さん 先立つ不幸をお許しください
 いや お父さんはおととし死んでもういないんだった
 生命保険にはいっておくんだった
 ああ しかし 保険金はだれが受けとるんだろう

 きみの顔が浮かぶ
 ごめんよ まっ先に思い浮かべなくて
 でも きみとはまだケッコンもしていないし
 セックスだってまだ六回くらいしかしていない
 そのうちの五回はぼくが早く終わっちゃったし
 残りの一回は宅急便のお望みの人に邪魔された

 ぼくが死んじゃったら きみはどんな顔をするんだろう
 悲しむだろうか
 まさか喜ぶなんてことはないよね
 いや わかんないよね
 きみはもう ぼくのことを嫌いかもしれないからね
 なにしろ早いからね

 でも ぼくはきみのことが好きだ
 それははっきりしてる
 こんなにきみのことを好きなぼくが
 理不尽な事故で死んじゃうなんて
 かわいそうすぎる
 て思わない?

 世の中 ぼくのような人がきっといっぱいいるにちがいない
 突然に生きていることを遮断されてしまう人たち
 自分の意思とき関係なしに 生きる道を奪われる人たち

 これまでそのことに気づかなかったぼくを
 かみさまはゆるしてくれるだろうか
 いまさら遅いよね
 死ぬ前にならなきゃこんなことにも気づかないおろかなぼく
 でも 遅かれ早かれ 人は死ぬ
 ぼくも死ぬ きみも死ぬ
 お父さんはもう死んだし お母さんも死ぬ
 魚屋のおばちゃんも ビデオショップのにいちゃんも死ぬ
 総理大臣も天皇陛下も死ぬ
 ブッシュもビンラディンも死ぬ
 人間 死亡率 百パーセント おめでとう!

 遺書にはなんて書けばいい?
 と思っているうちに 飛行機はうそのように静かになる
 乱気流を無事に脱出する
 雲のしたにおりると そこには真っ青な海が見える
 おもちゃのようにちいさな船が 白い航跡を描いている

 世はこともなし
 平穏無事そのもの
 人々はすぐに恐怖をわすれて
 平和のなかにもどっていく
 着陸のとき ちょっとだけ遺書のことを思いだすけれど
 また忘れて
 ぼくもぞろぞろ 人ゴミのなかにもどっていく

2010年2月22日月曜日

左義長

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----- Urban Cruising #29 -----

  「左義長」 水城雄


 和太鼓の音だ。
 仕事からもどり、玄関の戸をあけようとしたとき、それに気づいた。
 そういえば、数日前から街の通りには、短冊が飾られていたっけ。今日は左義長祭だ。

 はずしてしまっておいた正月の注連飾りを、物置から出してきた。
 猫がものめずらしそうな顔で寄ってくる。
 荒縄のにおいをかぎ、ちょいと手を出してさわる。
「だめよ。これから燃やしてもらいに行くんだから」
 と妻がたしなめている。
 猫を追いはらい、子どもと三人で玄関を出た。今度ははっきりと、和太鼓の音が耳にはいってきた。笛と三味線の音も聞こえるようだ。
「傘、いるかしら」
 午後からやんでいた雪が、また降りはじめているようだ。毎年、この左義長の時期になると、なぜか一段と冷えこみが増し、雪になることが多い。
 ジャンパーのフードを息子の頭にかぶせてやり、わたしたちは傘を開いた。
 車の轍のあとにそって歩きはじめると、サワサワと傘に雪が降りつもる音が聞こえた。
 街筋に出ると、雪が舞う中に短冊がひらめいているのが見えた。
 赤、黄、緑の組み合わせ。
 赤、白、青の組み合わせ。
 三色の短冊が、通りの上に張りめぐらされた縄から無数にぶらさがり、雪と風にひらめいている。
 息子がどこからか、とけた雪でびしょびしょになった短冊を拾ってきた。
「捨てなさい、そんなもの」
 妻が即座に命令する。息子は残念そうにそれを道ばたに投げすてた。
 最初の櫓が見えてきた。

 最初の櫓の手前で、注連飾りを預けた。
 竹で組んだ枠の中に、すでにたくさんの注連飾りが積みかさねられている。明日の夜、河川敷きでおこなわれるどんど焼きで、焼いてもらうのだ。
 櫓のまわりにはもう見物の人の輪ができていた。
 赤ん坊を抱いた父親と若い母親、ニコニコしたおばあちゃん、まっかな頬をした小学生、若いふたりづれ。
 櫓の上では、中年の女性が弾く三味線と歌に合わせて、女物の長襦袢の尻をまくり、頬っかむりをした男がふたり、おおげさな動作で和太鼓をたたいていた。三味線の横では、別の男が笛を吹いている。豆しぼりに法被を着た子どもも、櫓の上にあがっている。どうやら、はやく交代してもらいたくて、うずうずしているらしい。
「ねえ、これおもしろいわね」
 と妻が櫓の横にぶらさげられた行灯を指さした。
 行灯に張られた和紙には、川柳が書かれている。それらをひとつひとつ読んでいくのも、左義長祭の楽しみのひとつでもあるのだ。
 妻が指さした行灯には、川柳のほかに猫の寝姿も描かれていた。寝たふりしているが、猫は全部知っているんだぞ、という意味の、ちょっと色っぽい川柳だった。
「去年はたいへんだったわねえ」
 私と同じことを、妻も思いだしたようだった。
 そう、去年の左義長の日、ちょうどうちの猫がお産したのだった。
 櫓の上で待機していた子どもに、ようやく順番が回ってきたらしい。ちょっと緊張した笑顔で立ちあがると、大人顔負けの動作で太鼓をたたきはじめた。

 うまい具合に雪がやんでくれたようだ。
 次の櫓へと移動する途中、わたしたちは傘をすぼめた。
 街筋は車両通行禁止だ。かなりの人が通りを埋めつくすようにして、歩いている。半分以上が市外からやってきた人たちなんだろう。市の観光協会や商工会議所は、市の活性化をうたって祭の観光宣伝にやっきとなっている。その効果があらわれているのだろう。
 私が子どもの頃には、こんなに人は多くなかったようにおぼえている。
「いまごろどうしているかなあ、あの子たち」
 妻はまだ、去年生まれた子猫の話をつづけている。
 息子もまだちいさかったっけ、去年は。たしか背中におぶっていた記憶がある。そうやって左義長をひととおり見物して家にもどってみると、猫のタマが四匹の子猫を産んでいたのだ。
 火の気のない家の中の、それでもわずかにぬくもりが残っているらしい炬燵の下で、タマは途方にくれたような顔で子猫たちをながめていた。甘やかされて育った家猫だからだろうか、子猫の世話を自分ではできないようだった。
 あやうく冷たくなりかけた子猫をタマから取りあげると、わたしたちはあわててうぶ湯を使わせてやった。大騒ぎをしてヘソのおと胎盤の始末をしてやり、寝床の用意をして子猫とタマをそこにいれてやったものだ。
 そんなことを思いだしながら、ぼんやり櫓を見上げていると、人波に押されて息子の足を踏みつけそうになった。
 ずいぶんひさしぶりに彼をだっこしてやりながら、私は思った。
 この子が大人になったときには、祭はどのようになっているのだろうか。

2010年2月20日土曜日

An Octpus

(C)2010 by MIZUKI Yuu All rights reserved
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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #38 -----

  「An Octpus」 水城雄


「釣りたいんだけど、乗せてくれる舟はないかな」
 英語で話しかけると、見るからに漁師風のまっ黒に日焼けした男は、無表情に彼を見返した。
 通じないのか? それもやむをえない。イタリア語ですら通じないかもしれない。なにしろここはマルタ島なのだから。
 それにしても、なぜおれはこんなところに?
 あきらめて、英語が通じそうなところはないかとその場を離れかけると、思いがけず漁師が返事をした。
「わしの舟でよければ、乗りな」
 そこそこの英語だ。強いなまりはあるが、意味はわかる。
「あんたの舟って?」
「そら、あそこに」
 指さした先には、地元でルッツと呼ばれている派手な模様がペイントされた木造の小舟が見えた。このあたりの漁船だ。
「なにが釣れる?」
「なんだって。いまの時期だと蛸がいい」
「タコね……」
「あんた、日本人だろう。タコを食うだろうが。もっとも、知られていないことだが、わしらマルタ人もタコを食う。ちなみに、ギリシアの連中もな」
 まあいい。釣果が目的ではない。ただなんとなく釣りをしてみたくなっただけだ。
 学生時代、マルタで生まれたという同級生の女がいた。父親の仕事のために一家でそこに住んでいた。いい島だと彼女はいっていた。
 学生のときに立ちあげた会社がたまたまうまくいき、若い起業家としてマスコミからもてはやされた。実際、業績ものび、株式上場するまでに急成長した。株によって多額の資金を手に入れ、結婚もして順風満帆に思われた矢先、インサイダー取引疑惑で内偵が進められているという情報がはいった。さらに、写真週刊誌にはアイドルタレントとの火遊びをすっぱ抜かれた。実際、少しのぼせあがっていたところはあると、自分でも自覚している。
 ほとぼりをさますべく、ひとり、見知らぬ島に逃げてきた。妻にも行き先は伝えていない。来てみれば、乾いた砂ぼこりと、白い土壁ばかりの土地だ。なにもない。ただ、海と空は見たこともないほど美しかった。
 丘の上のホテルの窓から、ちっぽけな漁船が浮かぶ湾をながめていて、唐突に「釣りでもするか」と思いたった。日本にもどれば、ほとぼりがさめるどころか、検察が手ぐすねひいて待っているのかもしれない。なぜか知らないけれど、いま、美しい海にわが身を浮かべてみたくなった。置きざりにしてきた妻も、まだ子どもといってもいいようなアイドルタレントのことも、いまはどうでもいい。
 海に出ると景色が変わった。赤茶けた丘と、そこに建ちならぶ白い壁の家。海側から見るマルタの街は、ジオラマのようだ。
 釣糸をたらしてしばらくすると、手ごたえがあった。ぐねぐねと抵抗する感触を力ずくで引張りあげると、いきなり墨を引っかけられた。
 漁師が遠慮のない笑い声を彼に浴びせかける。顔の墨を指さして、ゲラゲラ笑っている。
「いいさ、そうやって笑ってろ」
 どうせおれはそういう人間なんだ。これまでだって、けっこううまくやってきたように見えて、じつは無理してた。かっこばっかりつけてた。ほんとは笑われて、こきおろされて、馬鹿にされるのがちょうどいい男なんだ。かんがえてみれば、ガキのころからいつも馬鹿にされていた。だから見返そうと思って無理を重ねてきた。
 こちらの日本語に対抗したのか、漁師が笑いながらマルタ語でなにかいう。もちろんなにをいっているのかわからない。
 墨を引っかけた蛸は、ルッツの船底でぐにゃぐにゃと足をよじらせてあがいている。自分そっくりだと思った。
 彼は着ているものを全部脱いだ。船べりに足をかけ、頭から思いきり海に飛びこんだ。
 浮かびあがると、気でも狂ったのかという顔でこちらを見下ろしている漁師の顔があった。それを見て、彼は笑いだした。いましがた笑われた分まで笑い返してやった。
 素っ裸のまま海面に仰向けになる。
 漁師がなにかいっている。今度は英語かもしれない。波の音に消されて聞こえない。
 真っ青な空と地中海の雲が、彼の網膜に焼きつけられる。
 よし、日本に帰るか。帰ってまたひとあがきするか、と彼は思う。

2010年2月18日木曜日

Soon

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----- Jazz Story #3 -----

  「Soon」 水城雄


 ベンチに腰をおろし、見上げると、桜はすっかり葉ばかりになっている。
 そうか、もうそんな季節なのか。
 彼は上着を脱ぎ、背もたれにかけた。
 ふうっとため息をつく。
 向かい側のベンチでは、黒いスーツを着た女子大生が、ひとりでポツンとサンドイッチを食べている。就職活動中なのだろう。
 彼の会社にも、たくさんの大学生が訪問している。みな、懸命で、熱心で、そして若い。おれにもそのような時があったのだろう。もう20年も前のことだ。
まるで白亜紀の記憶のように思いだすこともできないが。
 そしていま、ここには、仕事で疲れ、くたびれた中年の男がひとり、ぼんやりとすわっている。こんな新緑の季節だというのに。リクルート活動中の大学生たちも、いずれこのおれのように現実に直面し、くたびれ、すり切れてしまうのだろうか。
 売上をのばせ、ただ飯を食うな、さもなきゃリストラだ。そんなことをいわれても、シュレッダーなんてそうそう売れるもんじゃない。朝はもう三件も回った。午後には四件回る予定だ。
 人生は消耗という名の階段を果てしなくのぼりつづけるもののような気がする。
 そういえば、さっき、コンビニで買った雑誌のことを忘れていた。弁当を買おうと思ったのだが、気が変わったのだ。昼飯のかわりに、雑誌。
 十何年ぶりかで買った音楽雑誌。
 ライブ情報のページを開いてみた。
 と、彼のベンチに近づいてきたふたりのOLから問いかけられた。
「ここ、あいてます?」
「どうぞ。あいてるよ」
 こたえながら見上げると、木漏れ日がまぶしかった。

 ライブ情報のページには、知らないミュージシャンの名前がたくさんならんでいた。が、彼が若いころから活躍している名前も、ちらほらとある。
 まだやってんだ、あいつ。
 若い頃、ライブハウスで聴いたあの演奏。いまはどんな音を出しているのだろうか。彼より少し上の年齢のはずなのだ。
「これ、よかったらどうぞ」
 ふいに横から声をかけられて、彼はびっくりした。
 見ると、横にすわったOLたちが、こちらに顔を向けている。その手には、おにぎりの詰まった箱。
「作りすぎちゃったんです。よかったら食べてくれません?」
「喜んで」
「お茶もよければ」
「ありがとう」
 彼は握り飯をひとつ取り、そして紙コップを受け取った。
 水筒からお茶を注いでくれたOLは、二十四、五歳だろうか。
「おいしいですね」
「よかった。なにを読んでるんですか?」
「ジャズの雑誌。きみたちには興味がないでしょう」
「そんなことないです。興味はあるんだけど、なんだか難しそうで」
 彼は読んでいたライブ情報のページをベリベリと破った。
 雑誌をふたりに差し出す。
「これ、あげましょう。きっと最新のCDとかが紹介されてるから、よかったら聴いてみるといい」
「いいんですか?」
「私はこの部分だけで充分」
「なんですか、それ?」
「ライブハウスのスケジュール。ひさしぶりにライブでも聴きに行こうかなと思ってね」
 春だからね、といいかけた言葉を、彼は飲みこんだ。
 そう、階段をのぼりながらたまに休憩するのも、まんざら悪くない。

2010年2月13日土曜日

朝はきらいだ

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #35 -----

  「朝はきらいだ」 水城雄


 朝はきらいだ
 目をさましたとたん
 いろいろなことを思いだす
 今日しなきゃいけない いろいろなこと

 ゴミ出ししなきゃ 先週も忘れた
 洗剤買わなきゃ 薄めすぎて泡も出ない
 ママに電話しなきゃ もう二週間もかけてない
 電気代払わなきゃ 今日にでも止められちゃいそう

 腐ったシチューをいれっぱなしの鍋 洗わなきゃ
 パンクしたまんまの自転車 修理しなきゃ
 玄関ドアの隅っこに張っている蜘蛛の巣 掃除しなきゃ
 彼氏とヨリを戻したばかりのミカの愚痴 聞いてやらなきゃ

 起きなきゃ
 服を着なきゃ
 はがれたネールを塗りなおさなきゃ
 電線してないストッキングを探さなきゃ
 靴をはかなきゃ
 電車に乗らなきゃ
 仕事に行かなきゃ
 今日も生きていかなきゃ

 朝なんてきらいだ
 まばゆい陽がのぼる
 化粧しなけりゃ顔も見せられない
 日焼け止めクリームも塗らなきゃね
 このはちきれそうな二の腕 なんとかしたい

 なんで朝なんかやってくるんだろう
 ずっと夜のままだといいのに
 ずっと布団のなかでぐずぐずしていたいのに
 たったひとり 孤独に生きていることを あらためて確認させられる朝
 今日もまたひとつ 年をとってしまったことを確認させられる朝

 朝なんか来なければいい
 でも朝はやってくる
 毎日かならずやってくる
 朝が来ない日はない
 山手線が止まる日があっても 朝が来ない日はない
 メンスが来ない日があっても 朝が来ない日はない
 地球がまわりつづけるかぎり
 太陽が消滅しないかぎり
 朝はかならずやってくる

 そう 人生にはあきらめが肝心なのさ
 受け入れよう! あなたのきらいな朝を
 歓迎しよう! あたしのきらいな朝を
 そうすりゃ少しは気が楽になる
 かもね

2010年2月12日金曜日

青い空、白い雲

(C)2010 by MIZUKI Yuu All rights reserved
Authorized by the author

----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #40 -----

  「青い空、白い雲」 水城雄


 ぼくの生まれた土地のことを、きみに話そう。
 田舎のほうの、山が谷でくびれ、せせらぎが川となって平野へと流れこむ、その出口のところだ。小さな村となだらかな山があって、人々は長い年月をかけて山と折り合いをつけながら、段々畑や田圃を作ってきた。
 ぼくが生まれたのは、コブシや桜が終わり、藤や桐が薄紫色の花を咲かせるころ、山吹が山裾の小道を黄色く彩るころだった。雪解けの名残り水が田に導かれて水平に広がり、空を映してぬるむと、白鷺が冬眠からさめた蛙をついばみ、子どもらはスカンポを噛みながら畦道を駆け抜ける。
 生まれてしばらくしてから、ぼくは家族とともに街へと引っ越したけれど、いつも思い出すのは野山のことだった。軒先に作られた燕の巣を見つめながら、畑の上の草はらで見つけた雲雀の雛のことを思った。街を歩きながら、風とともに山道を駈けおりたことを思い出した。近所の大きな子どもに囲まれてからかわれながら、ひとり、せせらぎのヤマメを狙ったことを思い出した。
 村を離れたことを後悔してはいない。それはぼくにはどうすることもできなかったことだし、街には街の生活があった。ただ、夜中にこっそり裏口から抜け出し、ひと気のない公園をさまようとき、ぼくの脳裏には谷川から沸き立つように舞い上がる羽化したばかりの蛍の光の渦が見えていた。
 いま、ぼくは、街の中でこうやって身を横たえている。身体の下には、日に照りつけられて熱くなったアスファルトがある。でももうその熱さも感じない。
 買物に出かけた主人を追って道を横切ったとき、ひとかたまりの鉄がぼくを跳ね飛ばし、走り去ったのだ。
 聞こえるのは主人の声だろうか、それとも谷川のせせらぎだろうか。ぼくの頬に生暖かく伝わるのは、主人の涙だろうか、それともぼくの血だろうか。
 やがて静寂がやってくる。
 ぼくの身体は軽くなり、ふわりと浮いて舞い上がる。青い空と白い雲が見える。
 向かうはぼくが生まれた谷と川の里。畑の脇の柔らかい土に埋められて、ぼくの存在は里山になる。

2010年2月10日水曜日

Bangkok

(C)2010 by MIZUKI Yuu All rights reserved
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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #26 -----

  「Bangkok」 水城雄


 バンコクの上空は靄がかかっているようにくすんでいる。
 飛行機の窓からは朝焼けが見える。日はまだ昇っていない。ずっと眠っていたパパがぼくの横で身じろぎしてから、充血した目をあける。二時間くらい前に飲んだポケット瓶のウイスキーがまだにおう。
 ドン・ムアン空港はあきれるほど暑く、人でごったがえしている。まだ夜明け前だというのにどうしてこんなに人がいるんだろう。
 ぼくらはバスに乗りこみ、市内に向かう。
 未来都市みたいな空中道路から、街の中心部にそそり立つコンクリートとガラスのかたまりのような高層ビルの群が見えてくる。てっぺんのほうだけ朝日を浴びて、ギラギラと輝いている。パパのDVDコレクションにある古いSF映画のシーンみたいだとぼくは思う。
 ホテルの近くの道ばたには露店がならんでいて、大きな鍋からは湯気が立っている。気温はたぶん、35度くらいあるんだろう。露店の前は40度以上あるにちがいない。鍋の向こうには15歳くらいだろうか、ぼくと同い年くらいの少年が立っていて、巨大なひしゃくで鍋の具をかきまわしている。
 なにを作っているんだろう。やけにおいしそうだ。少し前にパパと食べたトムヤムクンの味が口のなかによみがえってきたような気がするのは、バスのなかにまで流れこんでくる香料のにおいのせいだ。
 渋滞に引っかかってしまったぼくらのほうを、少年がちらっと見上げる。
 目があった。
 浅黒い顔。骨ばった身体つき。真っ黒にちぢれた髪。鋭い目つき。
 学校には行かないのだろうか。それとも、ひと商売してから行くんだろうか。彼が作っているのは朝の通勤客に売るための朝食なのだろうか。それとも朝帰りの酔っ払いのための夜食なのだろうか。一杯いくらで売っているのか。
 バスがホテルに着く。
 熱帯の樹木で飾られた巨大温室のようなエントランスホールが見える。椰子の木にはさまれて金色の仏像が鎮座している。
 きらびやかな民族衣装をまとった若い女性がふたり、バスの外に出迎えにきた。にこやかな笑みを浮かべている。パパにつづいてステップを降りると、そのふたりの女性はぼくにもうやうやしくおじぎをした。
 ぼくはホテルには入らず、このままあの少年の露店のところに走っていきたくなる。あの少年からスープを一杯買って、なにか話してみたくなる。言葉は通じないかもしれないけど。
 観光なんてばかみたいだ、とぼくは思う。

2010年2月9日火曜日

Wind Blows In My Life

(C)2010 by MIZUKI Yuu All rights reserved
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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #28 -----

  「Wind Blows In My Life」 水城雄


 お金のためじゃないのよ。
 ええ、チラシ配りのアルバイト。近所をまわって、チラシをポストに入れて歩く。時給はまあまあ、かな。
 このアルバイトだって、チラシで見つけた。うちのポストに入ってた。アルバイト募集のチラシ。それだってだれかが配ったんだ。
 たしかにたいしたお金にはならないけど、どうせ空き時間を使うんだし、なにもしなければ一円だって生まない時間よね。くだらない昼ドラ見たり、茶店で主婦仲間と旦那の悪口いいあったり。
 旦那は、一流企業というわけじゃあないけど、まあそこそこちゃんとした会社のリーマン。営業。頭が薄くなりかけてる。でも、三十五をすぎて頭が薄くなりかけてない男なんて、普通じゃないし、どこかうさんくさい。だからといって、旦那ひとすじというわけでもないけどね。
 いえ、浮気なんかしたことないよ。ちょっといいかな、という男はいるけどね。同級生の旦那で、税理士やってる。遊びに行くと、愛想よくしてくれる。三十五をこえて頭も薄くなってない。同級生の彼女は旦那に愛想つかしてる。なら、うちが取っちゃうよっていうと、どうぞって。離婚しちゃえばいいのに、そうしない。できるわけない。うちだってそうだもん。
 だってそうでしょ。三十すぎて、頭は薄くなってないけどね、女だから、小学校にあがったばかりの子どもがひとりいて、お腹にもうひとつ胸がついてるようなぷにぷにした女、離婚してそれからどうすればいいっていうの。手に職もないしね。せいぜいこうやって歩きまわって、チラシ配って歩くだけ。
 でもけっこう楽しいのよ、これ。やってみてわかったんだけどさ。天気がよければ、歩くのも気持ちいいしね。ばか高い会費払ってスポーツクラブなんか行くより、ダイエットにもなるし、健康にもいいし。
 歩きまわってると、いろんな人に会うのよ。工事現場の警備員さんとかね。あれだってアルバイトだよね。けっこうな年齢のおじいさんとか、茶髪のお姉ちゃんとか、いろんな人がやってる。何度も通ってると、自然に挨拶するようになったりね。いいもんよ、そういうのも。庭の手入れしているおばあちゃんとかね。
 うちなんか、子どもも手が離れて、旦那とはいいかげん倦怠夫婦だし、頭は薄くなってきたし、うちも三十をとっくにこえちゃったし、かといってこれといって特技もないし、自立できるほどの経済力もないし、もう人生終わったみたいな気がしてたのよね。でも、よかった。チラシ配りなんてアルバイト、お金にこまってせっぱつまった人がどうしようもなくなってやるような仕事だと思ってたけど、そう思われてるかもしれないけど、そんなことない。
 そりゃ、もっと効率のいいアルバイトはいっぱいあると思うよ。もっと生産的な仕事とかね。でも、この仕事も悪くない。ていうか、どんな仕事も悪くないんだと思うな。
 そうね。こうやって歩いていると、いろんなものが見えてくる。いろんなことを考える。人生、そう悪くないじゃないって思えてくる。
 なんかね、自分の時間の風通しがよくなるような気がするんだ、チラシ配りのアルバイト。
 あんたもやってみなよ。紹介しよっか?

2010年2月8日月曜日

Cat Plane

(C)2010 by MIZUKI Yuu All rights reserved
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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #54 -----

  「Cat Plane」 水城雄


 猫
 猫と飛行機
 飛行機と猫
 飛行機に乗りたい猫
 猫が乗りたい飛行機
 猫だった飛行機に乗りたい
 猫だって飛行機に乗って飛んでいってみたい
 猫は飛行機に乗りたい
 猫が飛行機に乗る
 猫のしっぽが飛行機のしっぽにからみつく
 硬い飛行機のしっぽに柔らかい猫のしっぽがからみつく
 硬くてかっこいい飛行機のしっぽ
 柔らかくて色っぽい猫のしっぽ
 猫
 猫 いい子
 いい子の猫
 猫の子 いい子
 いい猫 いい
 猫 いい
 猫 とてもいい
 猫 とても気持ちいい
 気持ちいい猫 飛んでいきそう
 飛行機に乗って飛んでいきそう
 飛んでいきそう
 猫 いきそう
 猫 もういきそう
 飛行機に乗ってもういきそう
 硬いしっぽでいきそう
 柔らかいしっぽが小刻みに震える
 もうすぐ飛ぶの
 柔らかいしっぽがしなやかに滑走する
 もうすぐ飛びあがるの
 柔らかいしっぽがふわっと浮かぶ
 ほら飛んだ
 柔らかいしっぽが空中に弧を描く
 飛んでる
 飛んでいってる
 どんどん高く飛んでいってる
 猫いってる
 高くたかく
 もっともっと高く
 もっともっと
 猫だって飛んでいく
 猫だって飛んでいける
 だれだって飛んでいける
 飛ぼうと思えば飛べる
 飛ぼうと思わなければ飛べない
 飛べると信じれば飛べる
 飛べるかと疑えば飛べない
 猫だって飛べる
 高く高く飛べる
 どんどん飛べる
 もっともっと飛べる
 何度も飛べる
 猫 飛んでいる
 猫 うんと飛んでる
 柔らかいしっぽがふわりと飛んでいく

2010年2月6日土曜日

Oni

(C)2010 by MIZUKI Yuu All rights reserved
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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #46 -----

  「Oni」 水城雄


 暇をもてあまして死にそうになっていた俺は、うまい具合に女に呼びだされた。
 麻須美《ますみ》という名前で、これ以上ないというほど汚い心持の女だ。こういう女の恨みつらみが俺を呼ぶのだ。
 麻須美は男に捨てられたばかりで、半分は自分のせいでもあるのに、男にひどい恨みを抱いていた。それがこれ以上ない醜い心のなかでグツグツと煮えたぎっている。
 俺は麻須美に、
「ひとつだけお前の願いをかなえてやろう」
 といってやった。親切心じゃない。退屈で死にそうだったからだ。
 すると麻須美は、
「オトコに復讐してやりたいのよ」
 という。
「オトコならだれでもいいのか」
「ほんとはあいつに復讐してやりたいんだけど、いまは会ってもくれないでしょうし、このむしゃくしゃした気分を晴らせるならだれだっていいわ」
 お安い御用だ。
 俺は出会い系サイトにアクセスして、だれでもいいから男を一匹釣りあげてこい、と麻須美に命令した。それから小さくなって麻須美の身体のなかにもぐりこんだ。
 麻須美の身体はぽちゃぽちゃして居心地がよかった。とくに居心地のいい場所を選ぶと、おれはすぐにうとうとと眠りこんでしまった。
 そこはふっくらと丸く盛りあがったふたつの丘の片方のてっぺんにある、やわらかなゆりかごのような袋で、俺とて鬼の子、母鬼にあやされていた乳臭いガキのころを思いだして、気持ちよく眠っていた。
 そのうち、男がやってきた。
 俺はのそのそと起きだすと、麻須美の性欲中枢に念を送りこんで、男を誘惑させた。男は簡単に誘惑に負け、麻須美にのしかかってきた。俺としてはこんなのは朝飯前の仕事だ。
 男は麻須美の身体をさんざんいじくったり、なめまわしたりするのに、なかなか俺のいる場所にはやってこない。男の愛撫に感じたらしく、麻須美はどでかいよがり声をあげて身をよじらせている。俺は鼓膜が破れそうになった。
 そうこうするうち、ようやく男が俺のいる場所に吸いついてきた。唇で吸いあげ、舌でべろべろとなめまわしてくる。すると、俺のいる場所、つまり乳首だが、それが硬くなってきて、ふくらんできた。いよいよ俺の出番だ。
 男が強く吸いつくタイミングにあわせて、俺はえいやっと飛びだし、そのまま男の喉から身体のなかを通って下半身へと駆けおりていった。鉄棒を振りかざし、目的のものに襲いかかる。
 力いっぱい、ふたつの玉を交互に殴りつけてやった。何度も何度も。こんな愉快なことはない。
 やがて男は悶絶した。
 俺は男の管の先から外に出ると、麻須美に、
「これで復讐できたな。満足したろう?」
 と聞くと、麻須美は真っ赤に顔を沸騰させて、いった。
「なんで最後までやらせてくれないの! もう帰ってよ! 鬼は外!」
 恩知らずとはまさにこのことだ。まったく人間の女ときたら。鬼の女のほうがずっと優しくていい。

2010年2月5日金曜日

The Underground

(C)2010 by MIZUKI Yuu All rights reserved
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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #24 -----

  「The Underground」 水城雄


 暗闇にノックの音が響く。
 こんこん、こんこんこん。
 彼は闇のなかで顔をしかめる。
 だれだ、こんな時間に。いや……そもそもいまは何時だ。
 集中していた。彼が手にしているのは、アフリカの民族楽器。粗末なカリンバ。金属板の響きを共鳴させるためのひょうたんが、先日落とした時に割れて欠けてしまった。しかし、まだ望ましい響きは失われていない。少なくともこの地下室では。
 ほぼ正確にわかっている照明のスイッチを探り当て、明かりをつける。白く乾いた光が、地下室を妙に平面的に照らし出す。
 いつものことだ。
 彼はまばたきをこらえて、ドアをあける。
 青いストライプの制服を着た男が、こぶりの箱を抱えてそこに立っている。なぜか驚いたような表情を浮かべている。
「てっきりお留守かと……」
 三十歳くらいだろうか。彼よりはだいぶ若い。
 制服男が箱を彼に差し出す。中身はなんなのか。そうだ、命をつなぐための最小限の食料品。ネットで定期的に取りよせている。
「サインでもけっこうです」
 男が去ると、彼はもう荷物のことを忘れて、孤独な仕事にもどる。中断された貴重な時間がおしい。
 白っぽい照明のスイッチをいそいで切る。
 時間を音響で再組織すること。それが彼の仕事だ。時間軸のなかに、あるタイミングで音をならべる。音程と音色と強弱のパラメーターを与えた音を、時間軸にそってならべていく。暗闇のなかで。
 カリンバの金属片をひとつ、爪弾いてみる。カリンバという楽器の音色を持った5E音程の音が彼の地下室に響き、短い反響を残して消えていく。正確に一・六秒後に隣の金属片をはじく。5Fシャープの音が響き、そして消える。
 かつては彼もその音列を記録していた。紙に記録し、再現できるようにしていた。彼のその仕事を、人は作曲と呼んでいた。
 いま彼は、記録することをやめている。
 時間を音響で再組織すること。時空を人が支配できる唯一の仕事、それがこれだ。
 音楽だ。
 音は時間と空間のなかで生まれ、そして消えていく。しかしそれは偶然でも無益でもない。くっきりと意図されたものだ。そこには歓喜がある。記録など意味はない。
 音楽。
 それは人の人生のようなものだ。
 いや、人生が音楽のようなものか。
 彼は暗闇のなか、かすかに震える指でカリンバの金属片をはじきつづける。

2010年2月4日木曜日

At the Platform

(C)2010 by MIZUKI Yuu All rights reserved
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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #23 -----

  「At the Platform」 水城雄


 彼女は今日も始発で職場に向かう。
 日はまだ昇っていない。まっくらな中、そそくさと身じたくをすませ、アパートの部屋を出る。
 始発電車にはもう乗客がかなり乗っている。サラリーマン、OL、徹夜帰りの若者、制服を着たガードマン風の初老男性。
 会社から支給された駅の売店の制服を着た、化粧っ気のない中年女。それが彼女だ。
 各停に七駅乗って、いつもの駅で降りる。
 あまりひとけのないホーム。売店のシャッターは降りている。
 しゃがみこんでキーを差しこむ。シャッターを引きあげる。ガラガラという音が線路を渡って上りホームに反射する。その音を断ち切るように急行が通過していく。
 商品にかけられた覆いを取り、すでに届いている朝刊の束をならべていく。すぐに中年の男がひとり、経済新聞を一部買っていった。いつもの客だ。
「おはよう」
「ありがとうございます。いってらっしゃい」
 交わす言葉は決まっている。それ以外の言葉を交わしたことはない。
 ここで働きはじめて四年。それは夫と、そして娘と別れていた年数でもある。娘はまだこの路線で通勤しているはずだ。商品デザインの仕事をあの会社でまだ続けているなら。
 ガムをひとつ。30に手が届いているだろうか。OL。
 牛乳を一本。その場で飲み干して瓶を返してよこす。やがて定年だろう。初老のサラリーマン。
 スポーツドリンクと菓子パンをひとつ。短いデニムスカート。たくさんおピアス。若い女。
 昨日発売の週刊誌を二誌と、新刊コミックを一冊。太ったメガネの若い男。
 次々と客がやってくる。
 各停が停まる。かけこんでくる乗客。ホームがからになる。また客がやってきてたまりはじめる。十分おきの繰り返し。
 しだいに乗客の数が増えていく。ピークになるとドアからこぼれそうになりながら押しこまれていく。彼女の売店も忙しさのピークを迎える。そうして波が引くように、ゆっくりと静かになっていく。彼女もほっとひと息つく。
 心なしかスピードを落としゆっくりと通過していく急行が目にはいる。
 ドアのところにこちらを向いて立っている若い女。目があったような気がする。女はしばらく会っていない自分の娘のような気がした。
 向こうにもこちらがわかっただろうか。
 彼女の四年間が一瞬に凝縮され、消える。消えて永遠が残る。
 一日はまだはじまったばかりだ。

2010年2月3日水曜日

Lonely Girl

(C)2010 by MIZUKI Yuu All rights reserved
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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #7 -----

  「Lonely Girl」 水城雄


 路線バスがやってきて、停留所に停まる。
 が、その少女は動かなかった。乗らない、という意志を、首をうなだれ、目線を歩道のへりに落として、消極的に運転手に伝えている。
 やがてバスはエアコンプレッサーの音を残して走り去った。
 疲れた街灯が弱々しくまたたき、蛾の踊りを明滅させている。
 私はそれを、反対車線の自販機の前にとめた車のなかから見ていた。
 仕事を終え、ひとりの部屋に帰る途中、まだ自販機のタイマーが切れていない時間であることを確認して、買いに寄った。バス停の前に、ひとりの少女が立っていた。
 中三? あるいは高校生。私の娘と同年代に見えた。Tシャツに短いスカート。素足に黄色いサンダル。夜中、そしてこの季節、ひとりで外出するにしては、軽装すぎるように思えた。
 バスをやりすごしたのは、路線が違うせいか。それとも……
 気になった私はアイドリングを停め、しばらく待った。
 女性がひとり、少女に近づいてきて、声をかけた。少女は振り返ろうともしない。無視して、かたくなに突っ立っている。
 女性が少女の肩に手をかけた。少女が身体をひねって、手を拒否する。
 女性は立ち去ってしまった。また少女がひとり、バス停に残された。
 うなだれた少女が、手をあげ、指を目の下にあてる。
 立ち去ったと見えた女性は、離れた街灯の下のベンチに腰をかけていた。
 少女がまた目をぬぐった。そしてちらりとベンチのほうを見る。
 私は車のエンジンをかけた。
 わが娘のことを思いながら、ゆっくりとアクセルを踏みこんだ。
 少女が顔をあげ、ベンチのほうに歩きはじめるのが見えた。

2010年2月2日火曜日

雨のなかを

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #65 -----

  「雨のなかを」 水城雄


 降りしきる雨のなかを
 どしどし歩いてここまで来た。
 やっとの思いでここまでやってきた。

 雨は苦手なのだ
 雨のなかを歩くのは嫌いなのだ。

 傘をさし
 大きく捧げ持ち
 頭の上にななめに広げ
 なるべく雨に濡れないよう
 吹きつける風にさからい
 ななめに前に押しつけてどしどし歩いていると
 どしどし歩いている私がいた。

 どしどし斜めになって
 どしどし足を踏みしめ
 どしどし顎をかたくし
 どしどし前にすすんで
 雨は嫌いだ雨は嫌いだと世界を分けている私。
 雨を嫌いながら嫌いな雨を押しきって歩いていく私。
 何十年もそうやって歩いている私。

 ここから
 いまから
 私は
 雨が嫌いな私を
 すこしは好きになってやろうと思う。

2010年2月1日月曜日

Move

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----- Jazz Story #5 -----

  「Move」 水城雄


 だいぶ上流までやってきた。
 目的の滝壷はまだあらわれない。
 連れてきた息子は、動きも軽く、ひょいひょいと渓流をさかのぼっていく。
ときおり、脚の故障を抱えている私のことを気遣うことも忘れない。
「お父さん、だいじょうぶか?」
「ああ、平気だ」
 私は息を切らしながら、虚勢を張る。
 中学2年生。背丈はもう追いこされそうだ。時間の問題だ。今年中には抜かれるだろう。体重のほうはまだしばらく心配ないだろうが。
 手術のために入院していた妻が、退院し、体調も落ちついてきたので、ひさしぶりにひとり家に残し、息子とふたりでキャンプにやってきた。釣りのためのキャンプだ。狙うはイワナ。できれば尺以上のものをしとめたい。
 場所は数年前に私の釣りの師匠から教えてもらった秘密の支流。このあたりの川も、このところの釣りブームにあおられて都会からの釣り客が多くおとずれるようになったが、秘密の支流はめったに人が入ることはない。本流への合流地点が水面下にもぐっていて、発見されにくい支流になっているのだ。
 息子が歩みを止めた。
 胸までの防水ズボンを着ている。それが岩陰に身をひそめ、竿をそっと突き出す姿は、もういっぱしの釣り師だ。
 私も音を立てないように気をつけながら、息子のいる岩陰に近づいていった。

 息子は、餌の川虫を何匹か張りつけた笹の葉を、口にくわえている。
 目が真剣だ。
 のばした竿先をじっと見つめている。私も見つめる。
 竿先からは細いテグスが伸びている。テグスの途中に結びつけた鳥の羽が、わずかに見えている。テグスの先は、急流のなかのよどみに消えている。川虫をひっかけた釣り針がその先に伸びているはずだ。
 竿先がツンとしなった。
 すかさず、息子があわせる。
 わが息子ながら、なかなかの反射神経だ。
 クンと竿全体がしなり、ついでぴりぴりと震えた。
 かかった!
 息子はものもいわず、竿を慎重に立て、獲物がやっかいな岩陰にもぐりこんでしまわないようにあやつった。
 そう、それでいい。私は背後で手網を用意して、待った。
 獲物が姿をあらわした。
 25センチくらいだろうか。大物ではない。息子が引きよせたイワナを、私は手網ですくった。
 口から針をはずす。
 うまい具合に、餌の川虫はまだ針についている。息子のあわせが早かったせいで、イワナは餌を呑みこむひまがなかったのだ。
 獲物をビクに入れると、私たちはさらに上流に向かった。
 そして、ようやく目的の滝壷にたどりついた。
 大きな滝ではない。高さ5メートルほどから青白い水が流れ落ちている。しかし、水量は多く、深い滝壷が青黒く水をたたえている。細かい泡が深みから絶え間なくわきあがってくる。
 この奥のどこかに、私たちがねらう大イワナがひそんでいるはずなのだ。
 息子と私は背を低くかがめると、滝壷に向かってそろって竿を突き出した。

2010年1月31日日曜日

I'm Glad There Is You

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #8 -----

  「I'm Glad There Is You」 水城雄


 聞いて。
 今日はひどい一日だった。ほんとにひどかった。こんなひどい日はめったにないわ。
 目覚まし時計が鳴らなかった。
 知ってるでしょう? わたし、古い携帯電話のアラームを目覚まし代わりに使っているのよ。それが鳴らなかった。バッテリーがもうだめになってしまったらしい。
 あわててベッドから飛び起きたら、足首をひねってしまった。見て、少し腫れてるでしょう、この右足のところ。
 そのせいかどうか、バスを降りるとき転んで、サンダルのストラップを切ってしまった。恥ずかしかったわ。膝小僧もこんなにすりむいてしまった。
 当然、会社は遅刻。なぜ遅れたのか話したら、上司からはばか呼ばわりされてしまった。そこまでいうことないと思う。
 でも、ほんとにばかみたいな失敗をやってしまった。まちがえてどうでもいい書類を何百枚もコピーしちゃうし、大事な書類のほうはシュレッダーに入れてしまった。おかげで仕事はやりなおし。上司からはまたばか呼ばわりされた。
 昼に食べたサンドイッチには虫が入っていたし、マニュキュアははがれてしまうし、銀行は混んでいるし、生理は重いし、ここに来る途中には変な男に付きまとわれるし。
 こわかった。
 でもいいの。
 あなたがここにいてくれて、本当によかった。
 あなた以外、なにもいらない。
 ここに来れて、ほんとにうれしい。
 しあわせ。

2010年1月30日土曜日

群読シナリオ「前略・な・だ・早々」(3)

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----- 群読のためのシナリオ -----

  群読シナリオ「前略・な・だ・早々」(3)

   原作:夏目漱石・太宰治/構成:水城雄


  B、集団から抜け出る。

B「こんな夢を見た。腕組をして枕元に坐っていると、仰向に寝た女が、静かな
 声でもう死にますと云う」
E「女は長い髪を枕に敷いて、輪郭の柔らかな瓜実顔をその中に横たえている」
B「真白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、唇の色は無論赤い。とうて
 い死にそうには見えない。しかし女は静かな声で、もう死にますと判然云った。
 自分も確にこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、と上か
 ら覗き込むようにして聞いて見た。死にますとも、と云いながら、女はぱっちり
 と眼を開けた」
E「大きな潤のある眼で、長い睫に包まれた中は、ただ一面に真黒であった。そ
 の真黒な眸の奥に、自分の姿が鮮に浮かんでいる」
B「自分は透き徹るほど深く見えるこの黒眼の色沢を眺めて、これでも死ぬのか
 と思った。それで、ねんごろに枕の傍へ口を付けて、死ぬんじゃなかろうね、大
 丈夫だろうね、とまた聞き返した。すると女は黒い眼を眠そうにたまま、やっぱ
 り静かな声で、でも、死ぬんですもの、仕方がないわと云った」
D「じゃ、私の顔が見えるかい」
B「と一心に聞くと」
C・野々宮「見えるかいって、そら、そこに、写ってるじゃありませんか」
B「と、にこりと笑って見せた。自分は黙って、顔を枕から離した。腕組をしな
 がら、どうしても死ぬのかなと思った。しばらくして、女がまたこう云った」
E「死んだら、埋めて下さい。大きな真珠貝で穴を掘って。そうして天から落ち
 て来る星の破片(かけ)を墓標に置いて下さい。そうして墓の傍に待っていて下
 さい。また逢いに来ますから」
B「自分は、いつ逢いに来るかねと聞いた」

  C、出る。

C「日が出るでしょう」

  D、出る。

C・D「それから日が沈むでしょう」
C・D・E「それからまた出るでしょう」
C・D・E・野々宮「そうしてまた沈むでしょう」
B「赤い日が東から西へ、東から西へと落ちて行くうちに、あなた、待っていら
 れますか。自分は黙って首肯いた。女は静かな調子を一段張り上げて、「百年待
 っていて下さい」と思い切った声で云った。「百年、私の墓の傍(そば)に坐っ
 て待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」自分はただ待っていると答えた。
 すると、黒い眸のなかに鮮に見えた自分の姿が、ぼうっと崩れて来た。静かな水
 が動いて写る影を乱したように、流れ出したと思ったら、女の眼がぱちりと閉じ
 た。長い睫の間から涙が頬へ垂れた」
全員「もう死んでいた」

  全員(野々宮も)、その場にうずくまる。
  D、立ちあがる。

D「結局、僕の死は、自然死です。人は、思想だけでは、死ねるものでは無いん
 ですから」

  野々宮、立ちあがる。

野々宮「百年はもう来ていたんだなとこの時始めて気がついた」
D「それから、一つ、とてもてれくさいお願いがあります。ママのかたみの麻の
 着物。あれを姉さんが、直治が来年の夏に着るようにと縫い直して下さったでし
 ょう。あの着物を、僕の棺にいれて下さい。僕、着たかったんです。夜が明けて
 来ました。永いこと苦労をおかけしました。さようなら。ゆうべのお酒の酔いは、
 すっかり醒めています。僕は、素面で死ぬんです。もういちど、さようなら。姉
 さん。僕は、貴族です」

  D、うずくまる。

野々宮「はっと思った。右の手をすぐ短刀にかけた。時計が二つ目をチーンと打っ
 た」

  E、立ちあがる。

E「彼は千代子という女性の口を通して幼児の死を聞いた」
野々宮「おれは人殺であったんだなと始めて気がついた途端に、背中の子が急に石
 地蔵のように重くなった」
E「千代子によって叙せられた「死」は、彼が世間並に想像したものと違って、
 美くしい画を見るようなところに、彼の快感を惹いた。けれどもその快感のうち
 には涙が交っていた。苦痛を逃れるために已を得ず流れるよりも、悲哀をできる
 だけ長く抱いていたい意味から出る涙が交っていた。彼は独身ものであった。小
 児に対する同情は極めて乏しかった。それでも美くしいものが美くしく死んで美
 くしく葬られるのは憐れであった。彼は雛祭の宵に生れた女の子の運命を、あた
 かも御雛様のそれのごとく可憐に聞いた」

  E、うずくまる。

野々宮「こんな悲い話を、夢の中で母から聞いた」

  B、立ちあがる。

B「しかし私は今その要求を果たしました。もう何にもする事はありません。こ
 の手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもうこの世にはいないでしょう。とく
 に死んでいるでしょう。私は私の過去を善悪ともに他の参考に供するつもりです。
 しかし妻だけはたった一人の例外だと承知して下さい。私は妻には何にも知らせ
 たくないのです。妻が己れの過去に対してもつ記憶を、なるべく純白に保存して
 おいてやりたいのが私の唯一の希望なのですから、私が死んだ後でも、妻が生き
 ている以上は、あなた限りに打ち明けられた私の秘密として、すべてを腹の中に
 しまっておいて下さい」

  B、うずくまる。
  C、立ちあがる。

C「「泣きましたか?」「いいえ、泣くというより、……だめね、人間も、ああ
 なっては、もう駄目ね」「それから十年、とすると、もう亡くなっているかも知
 れないね。これは、あなたへのお礼のつもりで送ってよこしたのでしょう。多少、
 誇張して書いているようなところもあるけど、しかし、あなたも、相当ひどい被
 害をこうむったようですね。もし、これが全部事実だったら、そうして僕がこの
 ひとの友人だったら、やっぱり脳病院に連れて行きたくなったかも知れない」
「あのひとのお父さんが悪いのですよ」何気なさそうに、そう言った。「私たちの
 知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まな
 ければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした」
野々宮「けれども爺さんは、とうとう上がって来なかった。庄太郎は助かるまい。
 パナマは健さんのものだろう」

  Cも野々宮もうずくまる。
  全員、ゆっくり立ちあがり、客席に向かって一列にならぶ。

B「吾輩は猫である」
C「恥の多い生涯を送って来ました」
B「名前はまだ無い」
C「自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです」
D「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく
 に人の世は住みにくい」

  礼。
  音楽、終わり。

  終わり。

2010年1月29日金曜日

群読シナリオ「前略・な・だ・早々」(2)

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----- 群読のためのシナリオ -----

  群読シナリオ「前略・な・だ・早々」(2)

   原作:夏目漱石・太宰治/構成:水城雄


  音楽演奏。
  四人、その場でゆっくりと回転する。
  回転、ストップ。

B「私《わたくし》はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生
 と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚かる遠慮というよりも、その
 方が私にとって自然だからである。私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ
「先生」といいたくなる。筆を執っても心持は同じ事である。よそよそしい頭文字
 などはとても使う気にならない」
D「朝、食堂でスウプを一さじ、すっと吸ってお母さまが、「あ」」
B「私がその掛茶屋で先生を見た時は、先生がちょうど着物を脱いでこれから海
 へ入ろうとするところであった」
D「と幽《かす》かな叫び声をお挙げになった」
B「私はその時反対に濡れた身体を風に吹かして水から上がって来た。二人の間
 には目を遮る幾多の黒い頭が動いていた。特別の事情のない限り、私はついに先
 生を見逃したかも知れなかった。それほど浜辺が混雑し、それほど私の頭が放漫
 であったにもかかわらず、私がすぐ先生を見付け出したのは、先生が一人の西洋
 人を伴れていたからである」
D「「髪の毛?」スウプに何か、イヤなものでも入っていたのかしら、と思った。
「いいえ」お母さまは、何事も無かったように、またひらりと一さじ、スウプをお
 口に流し込み、すましてお顔を横に向け、お勝手の窓の、満開の山桜に視線を送
 り、そうしてお顔を横に向けたまま、またひらりと一さじ、スウプを小さなお唇
 のあいだに滑り込ませた。ヒラリ、という形容は、お母さまの場合、決して誇張
 では無い。婦人雑誌などに出ているお食事のいただき方などとは、てんでまるで、
 違っていらっしゃる。弟の直治《なおじ》がいつか、お酒を飲みながら、姉の私
 に向ってこう言った事がある」
C「僕も画くよ。お化けの絵を画くよ。地獄の馬を、画くよ」
D「爵位があるから、貴族だというわけにはいかないんだぜ。爵位が無くても、
 天爵というものを持っている立派な貴族のひともあるし、おれたちのように爵位
 だけは持っていても、貴族どころか、賤民にちかいのもいる。岩島なんてのはあ
 んなのは、まったく、新宿の遊廓の客引き番頭よりも、もっとげびてる感じじゃ
 ねえか」
C「自分はヒラメの家を出て、新宿まで歩き、懐中の本を売り、そうして、やっ
 ぱり途方にくれてしまいました。自分は、皆にあいそがいいかわりに、「友情」
 というものを、いちども実感した事が無く、堀木のような遊び友達は別として、
 いっさいの附き合いは、ただ苦痛を覚えるばかりで、その苦痛をもみほぐそうと
 して懸命にお道化を演じて、かえって、へとへとになり、わずかに知合っている
 ひとの顔を、それに似た顔をさえ、往来などで見掛けても、ぎょっとして、一瞬、
 めまいするほどの不快な戦慄に襲われる有様で、人に好かれる事は知っていても、
 人を愛する能力に於《お》いては欠けているところがあるようでした。(もっと
 も、自分は、世の中の人間にだって、果して、「愛」の能力があるのかどうか、
 たいへん疑問に思っています)そのような自分に、所謂「親友」など出来る筈は
 無く、そのうえ自分には、「訪問《ヴィジット》」の能力さえ無かったのです。
 他人の家の門は、自分にとって、あの神曲の地獄の門以上に薄気味わるく、その
 門の奥には、おそろしい竜みたいな生臭い奇獣がうごめいている気配を、誇張で
 なしに、実感せられていたのです」

  まるでビデオのリプレイのように。

B「吾輩は猫である」
C「恥の多い生涯を送って来ました」
B「名前はまだ無い」
C「自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです」
D「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく
 に人の世は住みにくい」

  以下の途中から、野々宮が出てきて、全員のロープをほどいていく。
  ほどき終えたら、元の位置に戻る。

B「ところへ知らん人が突然あらわれた。唐辛子の干してある家の陰から出て、
 いつのまにか川を向こうへ渡ったものとみえる。二人のすわっている方へだんだ
 ん近づいて来る。洋服を着て髯をはやして、年輩からいうと広田先生くらいな男
 である。この男が二人の前へ来た時、顔をぐるりと向け直して、正面から三四郎
 と美禰子をにらめつけた。その目のうちには明らかに憎悪の色がある。三四郎は
 じっとすわっていにくいほどな束縛を感じた。男はやがて行き過ぎた。その後影
 を見送りながら、三四郎は」
野々宮「広田先生や野々宮さんはさぞあとでぼくらを捜したでしょう」
B「とはじめて気がついたように言った。美禰子はむしろ冷やかである」
E「なに大丈夫よ。大きな迷子ですもの」
野々宮「迷子だから捜したでしょう」
B「と三四郎はやはり前説を主張した。すると美禰子は、なお冷やかな調子で」
E「責任をのがれたがる人だから、ちょうどいいでしょう」
野々宮「だれが? 広田先生がですか」
B「美禰子は答えなかった」
野々宮「野々宮さんがですか」
B「美禰子はやっぱり答えなかった」
野々宮「もう気分はよくなりましたか。よくなったら、そろそろ帰りましょうか」
B「美禰子は三四郎を見た。三四郎は上げかけた腰をまた草の上におろした。そ
 の時三四郎はこの女にはとてもかなわないような気がどこかでした。同時に自分
 の腹を見抜かれたという自覚に伴なう一種の屈辱をかすかに感じた」
E「迷子」
B「女は三四郎を見たままでこの一言を繰り返した。三四郎は答えなかった」
E「迷子の英訳を知っていらしって」
B「三四郎は知るとも、知らぬとも言いえぬほどに、この問を予期していなかっ
 た」
E「教えてあげましょうか」
野々宮「ええ」

  E、集団から抜け出る。

E「ストレイ・シープ。わかって?」

  全員、ストップモーション。
  短く音楽演奏。

C「けれども、その頃、自分に酒を止めよ、とすすめる処女がいました。「い
 けないわ、毎日、お昼から、酔っていらっしゃる」バアの向いの、小さい煙草
 屋の十七、八の娘でした。ヨシちゃんと言い、色の白い、八重歯のある子でし
 た。自分が、煙草を買いに行くたびに、笑って忠告するのでした。「なぜ、い
 けないんだ。どうして悪いんだ。あるだけの酒をのんで、人の子よ、憎悪を消
 せ消せ消せ、ってね、むかしペルシャのね、まあよそう、悲しみ疲れたるハー
 トに希望を持ち来すは、ただ微醺《びくん》をもたらす玉杯なれ、ってね。わ
 かるかい」「わからない」「この野郎。キスしてやるぞ」「してよ」」
D「この世にまたと無いくらいに、とても、とても美しい顔のように思われ、
 恋があらたによみがえって来たようで胸がときめき、そのひとの髪を撫でなが
 ら、私のほうからキスをした」

2010年1月28日木曜日

群読シナリオ「前略・な・だ・早々」(1)

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----- 群読のためのシナリオ -----

  群読シナリオ「前略・な・だ・早々」(1)

   原作:夏目漱石・太宰治/構成:水城雄


  照明、落とし。最小限まで。
  演奏陣二人、板付き。音楽、先行。
  照明、第一段階にアップ。
  控えから五人が出てくる。全員喪服。ただし髪は「喪」とは不釣り合いに鮮や
  かに飾っている。
  先頭、A。ロープで胸の上を縛られた四人(BCDE)を連れて出てくる。
  全員、所定の位置へ。
  音楽、変化。

  照明、第二段階にアップ。
  以下、まるでひとつの小説のように調子を合わせて。

B「吾輩は猫である」
C「恥の多い生涯を送って来ました」
B「名前はまだ無い」
C「自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです」
D「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく
 に人の世は住みにくい」

  以下、たたみかけるように。

E「敬太郎はそれほど験の見えないこの間からの運動と奔走に少し厭気が注して
 来た」
D「人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りに
 ちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、
 越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世
 よりもなお住みにくかろう」

  音楽、変化。
  以下、E、怒り表現にて。

E「彼は今日まで、俗にいう下町生活に昵懇《なじみ》も趣味も有《も》ち得な
 い男であった。時たま日本橋の裏通りなどを通って、身を横にしなければ潜《く
 ぐ》れない格子戸だの、三和土の上から訳もなくぶら下がっている鉄灯籠だの、
 上り框の下を張り詰めた綺麗に光る竹だの、杉だか何だか日光が透って赤く見え
 るほど薄っぺらな障子の腰だのを眼にするたびに、いかにもせせこましそうな心
 持になる。こう万事がきちりと小さく整のってかつ光っていられては窮屈でたま
 らないと思う。これほど小ぢんまりと几帳面に暮らして行く彼らは、おそらく食
 後に使う楊枝の削り方まで気にかけているのではなかろうかと考える。そうして
 それがことごとく伝説的の法則に支配されて、ちょうど彼らの用いる煙草盆のよ
 うに、先祖代々順々に拭き込まれた習慣を笠に、恐るべく光っているのだろうと
 推察する。須永の家へ行って、用もない松へ大事そうな雪除をした所や、狭い庭
 を馬鹿丁寧に枯松葉で敷きつめた景色などを見る時ですら、彼は繊細な江戸式の
 開花の懐に、ぽうと育った若旦那を聯想しない訳に行かなかった。第一須永が角
 帯をきゅうと締めてきちりと坐る事からが彼には変であった」

  まるでビデオのリプレイのように。

B「吾輩は猫である」
C「恥の多い生涯を送って来ました」
B「名前はまだ無い」
C「自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです」
D「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく
 に人の世は住みにくい」

  以下、E、悲しみ表現にて。

E「そこへ長唄の好きだとかいう御母さんが時々出て来て、滑っこい癖にアクセ
 ントの強い言葉で、舌触の好い愛嬌を振りかけてくれる折などは、昔から重詰に
 して蔵の二階へしまっておいたものを、今取り出して来たという風に、出来合以
 上の旨さがあるので、紋切形とは無論思わないけれども、幾代もかかって辞令の
 練習を積んだ巧みが、その底に潜んでいるとしか受取れなかった」

野々宮「「姉さんもう少しだから我慢なさい。今に女中が灯を持って来るでしょう
 から」自分はこう云って、例の見当から嫂の声が自分の鼓膜に響いてくるのを暗
 に予期していた。すると彼女は何事をも答えなかった。それが漆に似た暗闇の威
 力で、細い女の声さえ通らないように思われるのが、自分には多少無気味であっ
 た。しまいに自分の傍にたしかに坐っているべきはずの嫂の存在が気にかかり出
 した。
B「吾輩は御馳走も食わないから別段肥りもしないが、まずまず健康で跛にもな
 らずにその日その日を暮している。鼠は決して取らない。おさんは未(いま)だ
 に嫌いである。名前はまだつけてくれないが、欲をいっても際限がないから生涯
 この教師の家で無名の猫で終るつもりだ。
野々宮「「姉さん」
 嫂はまだ黙っていた。自分は電気灯の消えない前、自分の向うに坐っていた嫂の
 姿を、想像で適当の距離に描き出した。そうしてそれを便りにまた「姉さん」と
 呼んだ。
「何よ」
 彼女の答は何だか蒼蠅そうであった。
「いるんですか」
「いるわあなた。人間ですもの。嘘だと思うならここへ来て手で障って御覧なさい」
 自分は手捜りに捜り寄って見たい気がした。けれどもそれほどの度胸がなかった。
B「吾輩は険呑になったから少し傍を離れる。「その朗読会さ。せんだってトチ
 メンボーを御馳走した時にね。その話しが出たよ。何でも第二回は知名の文士を
 招待して大会をやるつもりだから、先生にも是非御臨席を願いたいって。それか
 ら僕が今度も近松の世話物をやるつもりかいと聞くと、いえこの次はずっと新し
 い者を撰んで金色夜叉にしましたと云うから、君にゃ何の役が当ってるかと聞い
 たら私は御宮ですといったのさ」
野々宮「そのうち彼女の坐っている見当で女帯の擦れる音がした。
「姉さん何かしているんですか」と聞いた。
「ええ」
「何をしているんですか」と再び聞いた。
「先刻(さっき)下女が浴衣を持って来たから、着換えようと思って、今帯を解い
 ているところです」と嫂が答えた。
 自分が暗闇で帯の音を聞いているうちに、下女は古風な蝋燭を点けて縁側伝いに
 持って来た。そうしてそれを座敷の床の横にある机の上に立てた。蝋燭の焔がち
 らちら右左へ揺れるので、黒い柱や煤けた天井はもちろん、灯の勢の及ぶ限りは、
 穏かならぬ薄暗い光にどよめいて、自分の心を淋しく焦立たせた。ことさら床に
 掛けた軸と、その前に活けてある花とが、気味の悪いほど目立って蝋燭の灯の影
 響を受けた」

2010年1月27日水曜日

Hold Me

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #12 -----

  「Hold Me」 水城雄


 汗ばんだあなたの腕が冷たかったので、わたしは尋ねた。
「寒くないの?」
 するとあなたはわたしの肩を抱いていった。
「寒くないよ。きみは?」
「だいじょうぶ」
 と、わたしは答えた。
 わたしは右腕を上にのばして、枕のように頭をその上に乗せていた。その腕を引きよせ、あなたはわたしの身体を腕のなかに抱いた。わたしは自分の腕をさげ、てのひらであなたの胸に触れた。
 あなたの胸もやはり汗ばんで、冷たかった。
 あなたの指がわたしの背中に触れ、なでていく。髪に触れ、そっとなでていく。
 テレビではまたテロと戦争のニュースを告げていた。また大勢の人が傷つき、大勢の人が憎しみあう。
 あなたが身体を起こした。わたしはあなたを求めて腕をのばした。
 しばらくしてもどってきたあなたの手には、冷たい飲み物の入ったコップがあった。わたしはそれを少し飲み、あなたにも飲ませたいと思った。
 だれもが知っているこの気持ち。
 でも、わたしも前の人のとき、この気持ちを失い、憎しみが生まれた。あなたにもまた、前のときのように憎しみを抱くときが来るのだろうか。
 嫌だ。
「それは嫌」
 わたしが声に出していうと、あなたは「なに?」と問いながら、わたしの身体を腕のなかにすっぽりと抱きしめた。

2010年1月26日火曜日

One Sweet Way

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #18 -----

  「One Sweet Way」 水城雄


 隣のレジのアルバイト女性がこちらを見て、それから男性アルバイトのわき腹をすばやくつついた。
 あ、気づかれたかな、と彼女は思った。
 彼女の前には男性客がひとり。弁当とスポーツドリンクを買おうとしている。彼女のレジかごのなかには、サンドイッチと紅茶のペットボトルがひとつずつ。
 昼休み。彼女はいつもこのコンビニに来て、昼食を買う。その外国人のアルバイト学生がここで働くようになったのは、いつごろからだっけ。つたない日本語、つぶらな瞳。仕事場ではついぞ見ることのない無垢な笑顔。
 右から左へ書類仕事をこなし、同僚とあたりさわりのない話をする。ときには飲み会と称して、セクハラぎりぎりの上司のジョークに付きあわされる。
 部屋に帰ってもひとり。コンビニ弁当とテレビドラマ、ケータイメールで時間をつぶす。
 彼とは四か月前に別れた。
 会社の近くのコンビニにその外国人アルバイトが働くようになったのは、そのあとのことだ。
 男性客の支払いが終わって、彼女の番になった。
 かごをカウンターに置く。
「いらっしゃいませ」
 つたない日本語。
 また横からつつかれた。彼の顔がまっ赤になる。彼も彼女のことを意識しているらしい。それとも、ただからかわれて恥ずかしがっているだけ?
 彼の分厚い手が品物を袋に入れ、代金を受け取り、釣りを彼女に渡す。
「ありがと」
 彼女がいうと、彼の顔がさらに赤くなった。

2010年1月25日月曜日

コーヒー

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----- Urban Cruising #27 -----

  「コーヒー」 水城雄


 アルバイトの学生にカードを渡すと、
「コーヒーをいかがですか」
 とたずねられた。
 それも悪くはない。ついでに、洗車もしてもらうことにしよう。みぞれあがりの道を走ってきた車は、泥だらけだ。

 スタンドの事務所の女性が、紙コップにはいったコーヒーを渡してくれた。
 湯気を立てるコーヒーをひと口すすってから、あけはなった入口から事務所にはいった。
 コーヒーはインスタントではないようだ。なかなかうまい。
「昨日からサービスしてるんですよ、それ」
 と事務員がいった。
「コーヒーメーカーをいれたんです。ほら、これ」
 わざわざ、事務所の奥にあるコーヒーメーカーを教えてくれた。
 業務用のものらしく、縦一メートルはあろうかというフィリップスの大きなコーヒーメーカーが、そこに置かれていた。
「なるほど。こりゃあ、いいね。身体が暖まるよ」
 わたしは世辞抜きにそうこたえ、ゴウゴウと音を立てている石油ストーヴに手をかざした。
 ガラス越しに、洗車機をくぐろうとしているわたしの車が見える。
 コーヒーをすすりながら、今日なんばいめのコーヒーなんだろうか、と考えた。
 比較的よくコーヒーを飲むほうだろう。朝起きて一杯。朝食をすませて一杯。事務所にはいって一杯。仕事中もしばしば飲む。
 外回りのときも、商談の相手から出されたコーヒーを飲むし、ひとりで息抜きにはいった喫茶店でも飲む。
 多い日には、十杯近く飲むのではなかろうか。
 コーヒーは好きだ。
 胃が丈夫でよかった、とわたしは思う。

 洗車機がしぶきをあげながら、わたしの車を洗っている。
 便利になったものだ。
 学生時代、わたしもガソリンスタンドでアルバイトをしていたことがあるが、洗車機というのはまだそれほど普及していなかった。今日のように寒い日には、洗車の仕事があるとよほどこたえたものだ。
 そういうときのコーヒー一杯というのは、じつにありがたかった。
 考えてみれば、頻繁にコーヒーを飲むようになったのは、大学にはいってからだろう。大学にはいり、親や教師の目を気にすることなく喫茶店に出入りできるようになってから、毎日のようにコーヒーを飲むようになったのだ。
 そのころはまだ、コーヒーに砂糖とミルクをいれていた。
 喫茶店にはいる。席につく。タバコに火をつける。
 ウェイトレスが来るのを待ち、「ブレンド」とぶっきらぼうにつげる。
 週刊誌を広げて、コーヒーが来るのを待つ。
 コーヒーが運ばれてくると、砂糖を一杯半いれてていねいにかきまぜる。グラニュー糖が完全に溶けたのを確認すると、今度は慎重にフレッシュ・ミルクをカップのふちから注ぎいれる。ミルクが褐色の液体の表面に不可思議な模様を描いて広がっていくのを見るのが、楽しかった。
 そういえば、あの頃はまだ、薄汚れたジャズ喫茶が残っていた。ばかでかいスピーカー。プチプチという雑音を立てるすり切れたレコード。タバコの煙。ちらしで埋めつくされた壁。無愛想な店員。
 コーヒー一杯でなん時間もねばったものだ。
 あの店はいったい、どこへ行ってしまったのだろうか。

 洗車機が空気を吹きつけてわたしの車を乾燥させている。
 わたしはそれをぼんやりながめながら、学生時代のことを思いだしている。
 学生の街特有の喫茶店が、あのころはたくさんあった。〈しあんくれーる〉〈鳥類図鑑〉〈ほんやら堂〉〈マキ〉〈パブロ〉〈サンタクロース〉〈たくたく〉〈拾得〉〈バナナ・フィッシュ〉〈グリーン・スポット〉〈リンゴ〉〈新進堂〉。
 そんな店が次々となくなり、あるいはこぎれいに改装されていったのと、学生運動が影をひそめていったのとは、ほとんど時を同じくしているように思える。
 わたしは、大学の入学式で、自治会と称する連中が角棒を持って演壇を占拠し、受験戦争をくぐり抜けてやってきたばかりのわれわれをびっくりさせたことを、おぼえている。学生食堂でBランチを食べていると、突然プラカードをかかげ、拡声器でなにやらスローガンを叫びながら室内をぐるりと回っていった連中のことをおぼえている。また、2年の夏には、田舎から帰ったわれわれを正門に築きあげられたバリケードが待っていたことをおぼえている。
 そういったものが次第に影をひそめ、うさん臭い喫茶店がこぎれいになっていくと同時に、学生たちもこぎれいになり、講義にはまじめに出席し、また裕福になっていったように思える。
 そういうわたしも、いまではこぎれいな乗用車を乗りまわし、洗車会員になり、月に三度も四度も自分の手を汚さずに車を洗ってもらえる、というわけだ。
「終わりましたよ、洗車。中もやっときますか?」
 アルバイトの学生がそういった。
「いや、中はいい」
 わたしは空になったコーヒーカップを握りつぶし、ゴミ箱にほうりこむと、事務所をでた。

2010年1月24日日曜日

Straighten Up

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #19 -----

  「Straighten Up」 水城雄


 ちゅーちゃん、ちゅーちゃん。
 そ、か。ちゅーちゃんはいない。いないんだ。あたしの大事な大事な猫のちゅーちゃん。仕事に集中するために、ママに預けちゃった。ごめんね、ちゅーちゃん。
 仕事。仕事。あたしの仕事。
 あたしの仕事は、女優。変な響き。じょ・ゆ・う。変な仕事。人前でお芝居して、お金をもらう。ううん、お金をもらえればラッキー。お芝居がお金になることなんかめったにない。だから、あたし自身とちゅーちゃんのご飯代は、アルバイトで稼いでいる。あたしとちゅーちゃんの住むおうち代も。
 事務員のアルバイト。事務員の服を着て、事務のお仕事。
 でも、あたしのほんとの仕事は女優。知らない人の前でお芝居することがあたしの仕事。というより、それがあたしの生き方。演じてないあたしは、ぬいぐるみと同じ。かわいいけれど、命は入っていない。
 演出のセンセがあたしに新しいホンをくれた。命が吹きこまれたあたし。あたしは立ちあがる。ひとりで。かわいそうなちゅーちゃんはあたしに捨てられる。
 ううん、捨てたんじゃない。お願いだからあたしにたくさん生きさせて。だから、少しだけママのところにいて。あたしが迎えに行くまでがまんして待っていて。かしこいちゅーちゃんなら、あたしのいまの気持ち、わかるでしょ?
 あたし、気づいたの。ちゅーちゃんがいると甘えて、気になって、仕事に集中できないんだって。あたしの仕事はキーを叩いてメールを書いたり、数字を伝票から伝票に書き移したり、品物を包んでつり銭とレシートを渡すようなことじゃない。あたしの仕事はあたしという身体とこころが必要とされる。いまはちゅーちゃんもオトコも忘れて、あたしはあたしの仕事にまっしぐらに入っていく。
 あたしはあたしの中に立ちあがる。まっすぐに。
 この仕事のためなら、あたし、死んだっていい。神様、あたしの命を全部差し上げます。だから、あたしにいい仕事をさせてください。おいしいものも、楽しいことも、気持ちいいことも、きれいな服も、イケメンのオトコも、なにもいりませんから、あたしの全部で演じさせてください。
 ごめんね、ちゅーちゃん。

2010年1月23日土曜日

Someone To Watch Over Me

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----- Jazz Story #35 -----

  「Someone To Watch Over Me」 水城雄


 どうやら場所を間違えてしまったらしい。
 私はひとり、ポツンと広い講堂の脇で立ちつくしてしまった。運動場のほうから入ればすぐにわかるといわれたのに、だれもいない。なにもやっていない。
 彼女の中学生の息子が、弁論大会に出るという。血はつながっていないが、父親として見に行ってやってほしいと頼まれた。しかし、彼のほうもまだ「おとうさん」と呼べずにいる。
 耳をすませば、たしかにどこか離れたところから生徒たちの声が聞こえてきた。どこかこことは別の場所で、弁論大会はおこなわれているらしい。
 この講堂から行けるだろうか。
 私は靴を脱いで講堂に入った。木の床がひんやりと冷たい。
 なつかしい感じがした。もう30年以上も昔、私もこんな学校に通っていた。
 目の前をふと、セピア色の風景がよぎる。よぎった思い出に誘われて私が目を向けたのは、講堂の横にある音楽教室だった。扉が開いていて、グランドピアノが置かれているのが見えた。
 私の足がそちらに向いた。
 思えば私も、中学時代、合唱コンクールの伴奏をしてほめられたことが忘れられず、音楽の仕事に進んでいったのだ。
 どことなくカビくさい音楽教室に入り、ピアノに近づいた。
 蓋に鍵はかかっていなかった。開くと、黄ばんだ鍵盤が見えた。
 指でなぞってみる。
 と、教室の入口から声がした。
「ピアノ、弾くんですか?」
 私の義理の息子とおなじ年くらいの女の子が、首をかしげて立っていた。

 彼女と知り合って7年。その間に、彼女の息子は小学生から中学生になった。
 彼も音楽が好きらしい。しかし、私の知らない流行歌手ばかり聴いている。
 私のライブに一度だけ、彼女といっしょに来てくれたことがある。まだ小学生のころのことだった。しかし、それ以来、一度も来ていない。
 私はピアノに座った。
 中学生のころ、私はどんな音楽を聴いていたのだろうか。
 女の子が近づいてきて、ピアノの横に立った。私は彼女に聞いてみた。
「なにを弾いてあげましょうか」
 それが癖なのか、女の子はふたたび首をかしげた。
「そうですね。椰子の実の歌は弾けますか?」
「名も知らぬ……というやつですか」
「はい」
「弾いてみましょう」
 私は弾いた。古い鍵盤は軽く、しかしアクションは重く、弾きにくかった。
ゆっくりとコードを考えながら弾いた。
 弾き終えると、女の子は音のない拍手をくれた。
「お上手なんですね」
「仕事だから」
 私は義理の息子の名前を出して、知っているかと聞いてみた。
「知っています。もうすぐ弁論することになってます。わたしも聞きたいの」
「いっしょに行きましょう」
「はい。おとうさん、ですか?」
 私はちょっとためらってから、うなずいた。
「はい、おとうさんなんです」
 女の子が先に立って会場まで案内してくれた。女の子の髪からは、いいにおいがした。
 息子もきっと、この子が好きなんじゃないかな、と私は思った。

2010年1月22日金曜日

親知らず

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----- Urban Cruising #33 -----

  「親知らず」 水城雄


 親知らずとはうまいことをいったものだ。
 なるほどねえ、こんな歳になってから生えはじめ、歯グキを押しあげてはシクシクと痛むなんて。
 切ないような、それでいてなつかしいような感じだ、この歯の痛みというのは。

 ここ数年、風邪をひくたびに奥歯のあたりが腫れぼったくなり、シクシク痛むことが多くなっていたが、二、三日前、やはり同じように重い痛みをおぼえ、指で軽く押さえてみたら、どうやらすこし出血しているようだった。
 家内がせいいっぱいあけたこちらの口の中をのぞきこんで、
「親知らずが生えかかってるわよ、これ」
 といった。
 いまごろになって成長をはじめた歯が、内側から歯グキを押しあげ、ついにはそれを破って外に出てきてしまったというわけだ。傷口から雑菌でもはいりこんだのか、化膿しているみたいにジクジクと痛む。舌の先で押さえてみると、血の味がかすかににじむ。
「抜いてもらったら?」
 家内はあっさりいうが、当事者としてはそう簡単にかたづけるわけにはいかない。歯医者に行く、ということをかんがえたとたん、思い浮かぶのはあのいけ好かない金属音と消毒薬のにおいだ。それに、親知らずなんていうのは歯の中でも一番奥のほうに位置している。そんなところにあるものを抜くとなると、ギリギリ、ゴリゴリ、ガリガリと、相当に苦労するにちがいないのだ、歯医者だって。
 虫歯ならあきらめもつこうが、ちょっと成長がおそかったからといって、正常に生えてきた新しい歯をひっこ抜いてしまうというのは、気がひける。
 抜かずにすむものなら、このままにしておきたい。
 が、痛みはズキンズキンと、頭の芯にこたえるようだ。このままほうっておけば、ひどくなるのか、あるいはおさまるのか。
 歯医者。
 行くとすれば、何年ぶりになるのだろうか。十年。いや十五年は行っていないな。
 高校のときに治した歯は、いまでもけなげにがんばっている。

 ズキズキ痛む箇所は、舌先でさわってみると、ぷっくりと腫れあがり、そのあいだから確かに硬いものが顔をのぞかせている。
 親知らずとはまあ、なんということだ、このわたしに限って。
 歯の痛みなどというものは、年月がたつにつれて次第に記憶がうすれてしまうものだ。知人で歯痛をかかえてうなっている人を見ても、自分がじっさいに経験した歯痛の実感を思いだすことはできない。そんなに痛かっただろうか、顔をかかえて涙を流すほど痛いものだっただろうか。
 どうにも痛みの実感というものは、思いだせない。思いだすのは、歯科医院の待合い室で見た事務員の笑顔であるとか、白いマスクをつけた赤ら顔の先生の顔であるとか、そんなものばかりだ。小学校の集団検診で意味のわからない記号をぶっきらぼうに看護婦につげる先生の声も、思いだす。あるいは、コンジスイという薬の刺激性のにおい。歯痛のために眠れないわたしをおぶって、夜の堤防をトボトボと歩いた父親の姿。
 あれはわたしが何歳のころだったのだろう。負われていたぐらいだから、おそらくまだ小学校にははいっていなかっただろう。そう、小学校にはいると同時に、わたしたちはあの川向こうの家からこの街中に引っ越してきたんだった。だからあれはやはり、四歳か五歳のころの記憶ということになる。
 夜になってジクジクと痛みはじめた虫歯に困惑したのは、わたしばかりではなかったと思う。ふとんにはいっても眠るどころかいつまでもメソメソと泣きやまない幼いわたしを見て、思いあまった父親はわたしを背中を背負い、冷たい夜風の中に出ていったのだ。
 かたく目をとじて父親の背中にしがみつくと、雨あがりで増水した川のゴウゴウとうなる音が聞こえた。

 冷たい夜風は、虫歯で腫れあがった頬に心地よかったような気がする。
 家の中ではメソメソ泣きつづけていたわたしも、父親の背中に負われて夜の中に出ていくと、泣くことを忘れてしまった。
 親知らずの痛みに誘われて、わたしはいま、思いがけず、あのときの夜の感触をはっきりと思いだしている。
 増水した川がゴウゴウうなる音。
 暗くて川面は見えなかったが、茶褐色のうず巻く濁流が手のとどかんばかりのところに見えるような気がした。堤防添いの桜並木が、風に吹かれてザワザワと不気味な音をたてていた。
 台風か前線か、とにかく雨が通過したばかりなのだろう、まだ強く冷たい風は残っていて、出がけに母親は、父の背中のわたしをすっぽりおおうようにして半天をかぶせてくれていた。その中でわたしはカメの子のように父親の広い背中にしがみついていた。
 父親がなにかをいっている。歌を歌っているのだろうか。あるいはたんに言葉に節をつけて歌っているように聞こえるだけだろうか。
 あの川のそばを、いまでもときおり通ることがある。川はあのときとはすっかり姿を変えてしまった。上流に大きなダムがいくつもできたのだ。護岸工事が進み、河川敷きは公園となり、川で泳ぐ子どもたちの姿は見られなくなった。
 虫歯の痛みとともに記憶の底にしまわれていたあの光景——荒々しい濁流のひびき、広い父親の背中、あたたかな半天、桜並木のざわめき——そういったものが、親知らずの痛みでよみがえってきたわけだ。
「あっさり抜いちゃったほうがいいんじゃない?」
 そう妻が提案している。
 なんだかおしいような気がして、わたしはてのひらで腫れあがった頬を包んでみる。

2010年1月21日木曜日

Depth

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #10 -----

  「Depth」 水城雄


 定時連絡が待ち遠しい。あと三時間。
 妻の声が聞きたい。顔が見たい。ここしばらく、定時連絡に妻は姿を見せていない。
「重要な任務でしばらく出張してもらっている」
 労働党科学会議の偉大なる海洋技術部総書記殿がそうおっしゃった。任務の内容も、出張先も極秘で、私にすら教えられないそうだ。教えてもらったところで、この深海でなにができようというのか。
 任務完遂まであと十五日。深度七五〇〇メートルに設置された真深度居住実験施設に私が送りこまれて、今日で三十日がたった。いや、まだ二十九日か。あるいは三十一日か。
 真っ暗な深海の底に設置された宇宙船のような狭い実験施設に閉じこめられていると、時間経過の間隔がどんどん麻痺してくる。いまが朝なのか夜なのか、昨日なのか明日なのか、今日が何日なのか。
 小さな窓の外はなにも見えない。なにもない。窓からもれるわずかな明かりのなかを、マリンスノーが音も立てずに降っているだけだ。ときおりリュウグウノツカイがゆっくりと横切るのを見たが、夢なのか現実なのか私には区別がつかない。
 それにしても、妻はどんな任務についているのか。どこへ出張しているのか。
 前回定時連絡で見た妻は、私がいないにも関わらず、生きいきと美しく輝いていた。地上では充実した生活を送っているようだった。その妻の肩に偉大なる海洋技術部総書記殿の手が回されているのを見たような気がしたが、それは私の見間違いだったのか。
 任務完遂まであと十六日……十七日? いや、二十日か? いつまでここにいればいいのだ。ひょっとして、永久にここに閉じこめられてしまうのではないか。
 いまは何時なのか。定時連絡まであと何時間なのか。そもそも定時連絡の時間はやってくるのだろうか。
 私は生きているのか。それとも死んでいるのか。
 私はいったい、だれなのか。

2010年1月20日水曜日

五年ぶりの電話

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----- Urban Cruising #26 -----

  「五年ぶりの電話」 水城雄


 こんな時間にだれだろう、と思って電話を取ると、
「もしもし、末永ですけど」
 と相手がいった。
 だれなんだ、末永って?
「きのう、ブエノスアイレスから帰ってきたの」
 ぼくはうれしくなって、しばらく声が出せない。

 末永っていうから、だれかと思っちゃったよ。小畑さんじゃないの。元気? もちろん元気さ。そっちは? 旦那さんは? 子供は? 小学校二年生? もうそんなになるんだ。いやあ、ほんと。うちは五歳だよ。あのね、聞きたくないけどさ、小畑さん、いくつなの? 三十四? 想像つかないよなあ、お互いに。おれは三十二だけどさ。うそだよ、小畑さんっておれより二つしか上じゃなかったんだっけ。三つじゃなかったの? そう、二つなの? あ、ごめん、ついつい小畑さんっていっちゃうんだよな、末永さんなんだよな。実家なの? 帰ってきて、どこに住むの? また東京? あの前のところ? 旦那さんはそこにいるんだろ? へえ、そんなへんな話、聞いたことないな。じゃ、しばらくは実家にいるんだ。遊びにおいでよ。近いもんじゃないの、姫路なんてさ。そうだ、スキーしにおいでよ、うん、行けなかったなあ。小畑さんが、いや末永さんがあっちにいる間に、一度行きたいと思ってたんだけど、貧乏ヒマなしでさ。どうだった、アルゼンチンは? そうらしいね。行った人はみんなそういってるよ。おれも行きたかったなあ、小畑さんがいる間に。もう行かないの? もしもし、うん、聞いてるよ。カミさんはね、子供といっしょにもう寝ちゃったよ。いつもならおれも寝てる時間なんだけどさ。さっき一度かけてきたろ? あの時は無視してやったんだよな。でも、またかかってきたから、まあ出てやろうと思ってさ。まあ、そういうなよ。うん、会いたいなあ。ねえ、こっちに遊びに来なよ。子供つれてさ。
 なんにも変わってないんだよなあ、声を聞くかぎりじゃ。ねえ、写真送ってよ、こっちも送るからさ。うん。本も送るよ。何冊か送ったよね。え、二冊しか行ってないの? そうかなあ、ちゃんと送ってるつもりでいたのに。じゃあ、そのあとのやつも送るよ。順調なんかじゃないよ。なんかやたらバタバタと忙しくてさ、そのくせちっとももうかんないの。貧乏ヒマなしってやつだよ。行きたかったなあ、アルゼンチン。いいらしいね、ブエノスアイレスは。だれか知ってる人でもいなけりゃ、そんなところ行く機会なんかないもんなあ。行きたかったなあ。スペイン語だろ、あっちは? さっきなんか、冬休みのこと、へんなふうにいってたじゃない、小畑さん。なんだっけ? バカシオンだっけ? バケーションじゃなくてバカシオンなんだ。ははは。笑っちゃうよなあ、小畑さんがスペイン語だってさ。バカシオンだって。ははは。ともちゃんは言葉のほう、だいじょうぶなの? そうだな、両親とは日本語だもんなあ。すぐに忘れちゃうんだろうな、スペイン語なんか。忘れたほうがいいっていうけどね、子供は。ねえ、写真送ってよね。おばさんになってんだろうなあ。楽しみだなあ。いやいや、ごめん。こっちだっていいおっさんだからなあ、もう。白髪なんかいっぱい出てきちゃってさ。もうすごいよ。ねえ、春休みにおいでよ。まだスキーできるかどうかはわかんないけど。子供つれてさ。あ、そうだ、旦那さんもいっしょに来ればいいじゃない。みんなで泊めてあげるよ、ほんと。
 あいつ、おぼえてる? 森崎って。あいつも東京にいるんだぜ。おぼえてない? ばかだなあ、相変わらず。ずっとむこうにいたから、日本のこと、すっかり忘れちゃったんじゃないの? なに、それ。掃除機がおもしろい? そうだよ、もうゴミなんかワンタッチで捨てられるんだよ。静かだし、最近のは。あっちではそうじゃなかったの? でも、あれだろ、メイドかなんかにやってもらってたんだろ、掃除なんか。いいよなあ。住みやすいらしいよなあ。行きたかったなあ、ほんと。洗濯機なんかもおもしろいだろ、じゃあ。浦島太郎だって? うーん、そうかもしんない。おれにはわかんないけどさ。五年っていえば、すごく変わっちゃうもんなあ、世の中。変わってないのは、小畑さんだけだったりして。あ、ちがった、末永さんだな。でも、もう二年だもんな、ともちゃんも。うちなんか、五歳だもん。今年、幼稚園の大きい組。赤ん坊の頃しか知らないだろ? あれ、写真しか見てなかったっけ? うちの子、いい子だよ。かわいいよ。もうかわいいかわいいですまされる年齢じゃないんだけどさ。ともちゃん、どんな女の子になってるのかな。会いたいなあ、見てみたいよ。そうだ、旦那さんにも会いたいなあ。まだ会ったことないんだよな。ほんとだよ。うん、そうなんだ。おばさんになった小畑さんにも会いたいしな。まあ、そう怒るなよ。全然変わってないなあ、五年前と。なにが変わったんだって? 知らないよ、そんなこと。おれも変わってないよ。こうやってしゃべってると、ちっとも変わってないような気がするんだ、なんか。

2010年1月19日火曜日

The Sound of Forest

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #50 -----

  「The Sound of Forest」 水城雄


 きみは森の音を聴いたか。
 はるかな瓦礫の街から、僕はようやくここにたどりついたばかりだ。
 噂は本当だった。本物の森がまだここに残っている。瓦礫の街の人々はだれも信じちゃいなかった。でも僕は信じていた。森の音がいつも僕の耳の奥に聞こえていたから。
 灼けた風が埃を灰に変えながら吹き抜けるときも、硝酸の雨がコンクリートを溶かしながら降りそそぐときも、僕には森の音が聞こえていた。放射線が人々のリンパ腺を灼きつくして血液ガンが蔓延しても、生き残ったバイオチップが自己増殖を始めて人間を攻撃しはじめても、森の音は僕の耳にとどいていた。
 いま、それは幻聴ではなく、まぎれもなく直接ぼくの鼓膜にとどいている。
 微風が木々の葉を揺すり、触れあわせる音。それはかすかな音だけれど、まるで森全体がささやいているようだ。ささやきはときにはっきりとした言葉になり、そしてメロディになる。風が変化するたびに、森の歌声は高まり、ハーモニーは複雑な響きを作る。その風がたとえ文明の末期のしわざによって穢されていようとも、森がささやき、歌声をあげるたび、すべてが浄化されていく。
 ここに来れてよかった。
 森は希望だ。森だけが希望だ。森だけがまだ生きて世界を清め、命を守りはぐくんでいる。
 死神としての人間はこのまま消えていくか、あるいは森とともに生きるすべを学ぶしかないだろう。
 僕にはもう時間は残されていない。ここにたどりつくために命の残りをほとんど燃やしてしまった。
 きみは森の音を聴いたか。きみもここに来て、森の歌をともに聴けるだろうか。