2009年10月31日土曜日

失われし街

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----- Urban Cruising #15 -----

  「失われし街」 水城雄


 栂野(つがの)の存在を示す文献は、県内にもそう多く存在しない。宝永年間に著されたとされる橘家の所有になる『栂野記』によれば、現在の河野(こうの)村浦白(うらじろ)にあったとされるが、さだかではない。
 われわれはただ、おぼろげなる伝承と文献により、その幻の地を想像するしかないのだ。

 松岡町の郷土史家杉本浩三郎氏によれば、栂野の存在は橘家所有の『栂野記』より、『越前奥越開拓史』につまびらかにされているという。
 杉本氏は、この明治23年に大日本帝国陸軍調査部島田忠次大尉によって書かれた報告書の写しを一部所有しているが、これには栂野が越前奥越地方、現在の大野郡三井原(みついがはら)に存在していたことを示す重要な証拠が記されていると主張する。実際われわれは、次のような一文を目にすることができる。

三井原発掘調査団ハ地中四尺ノ位置ヨリ栂野ニテ使用サレテイタト云ハレル
鱗粉掻キ棒ヲ掘リ出スコトニ成功セリ。

 この鱗粉掻き棒というのは、あくまで伝承によるものだが、栂野において飼育が盛んだったとされるいまでいうムラサキコトブキチョウの鱗粉を加工するためのものである。
 しかし、この掻き棒が発掘されたことは、すなわち栂野がこの地にあったことの直接的な証拠とはならないし、また掻き棒の存在も今日ではさだかではないのである。
 これほどまでに名の通った村が、その存在した位置すらもわからずに今日まで語りつがれているという例を、われわれは他に知ることができない。
 あるいは栂野は、中世の人々の純粋な想像の産物だったとでもいうのだろうか。

『栂野記』では海辺の町であったといい、『越前奥越開拓史』では山村であったという。が、文献に頼らないとすれば、じつに多彩な栂野に関する伝説が、民間で伝承されていることは、周知である。
 栂野が長く人に語りつがれ、記憶の奥底で愛しつづけられていたことは、次のわらべ歌にひそむ言葉によっても明かである。

ちょうちょ たべては ひゃくひとつ
かわず ねぶては ひゃくふたつ
 つがの いきたや てきねえと

 杉本氏とは対象的に地方マスコミには決してあらわれない、知られざる民間伝承の研究家竹内洋三氏によると、栂野の立地はさだかではないが、語りつがれている栂野伝説はあながち虚構ばかりではないと信じるという。いわく、老人はムラサキコトブキチョウの変種から取った鱗粉を食べることによって200 歳近くまで生きていた。いわく、ヒキガエル、アオダイショウをはじめとする主にハ虫類より抽出した特殊な薬物によって疫病の治癒をおこない、近隣地域に絶大なる益をもたらしていた。いわく、決して村人以外は村にいれず、また村から出るものもいなかった。
 竹内洋三氏によれば、栂野の末えいがおそらく、この北陸にもまだ多く生きているはずだということだが、その証拠を得ることはおそらくできないだろう。われわれはただ、わずかに残るわらべ歌や民話から伝説の地栂野の姿を想像するしかないのである。

 栂野の存在を、物的証拠から証明しようと試みる者もいる。
 元京都大学文学部教授、現在は福井市内で93歳の老骨に鞭打って『栂野民話考』の執筆を精力的につづけている徳永栄一郎先生である。先生は、各地に残されている民話やわらべ歌から推理して、微細な証拠を次々と数えあげるというすばらしい仕事をつづけている。
 われわれはまれに、足羽山のふもとあたりを杖にすがってゆっくりと歩いているひとりの老人の姿を見ることができる。そのとき、老人の視線が、道路わきの石垣のあたりを飢えた野犬が野ネズミを追うように鋭く探索しているのに気づくかもしれない。
 わたしは何度か徳永先生の探索行に同行する好運を許された、数少ない人間のひとりである。ゆっくりと歩く先生が、杖の先である場所を指ししめすたびに、わたしは驚愕し、わが身の不明を恥じたものである。それほど、栂野の存在を示す物的証拠は、われわれの身のまわりに豊富にあるということである。
 わたしは、花堂(はなんどう)駅前の敷石にきざまれた栂野特有の方位記号を見た。清水町の古い民家の玄関に、栂野彫りの置物を見た。幾久公園の雪囲いに、栂野でしか育たなかったと伝えられる春ツゲの枝が使われているのを見た。そして、鯖江の織物工場の倉庫に打ちすてられた手織機の下から、ムラサキコトブキチョウの羽の一枚が、ほぼ完全な形で出てくるのを見た。
 先生に勇気づけられ、われわれもまた微細な観察者となって街を歩きつづけなければならないのではないだろうか。

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