2009年9月26日土曜日

迷信

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----- Another Side of the View #9 -----

  「迷信」 水城雄


 古びた桟橋をギシギシいわせながら、その男はやってきた。
 よれよれのシャツにすりきれた半ズボン、使い古されたゴムのサンダル。まっ黒に日焼けした顔。短く刈りこまれた頭は、ゴマ塩というよりほとんど白に近い。
 ヨタヨタと彼らの船に近づいてくると、老人は口をひらいた。
「ぶじに航海をつづけたいなら、すぐに船を動かすがいいな」
 思いがけず日本語を聞き、ふたりはキョトンと顔を見合わせた。
 夕刻からずっと飲みつづけていて、いいかげん酔っぱらっていたのだった。塚田の足元に置かれているジャマイカ・ラムのボトルは、もう半分ほども残っていない。
「じいさん、旅行者ってわけじゃないな?」
 ややもつれた口調で村上がぶっきらぼうにたずねた。
「飛行機乗りだったのさ。いっぺん内地に引きあげてから、また舞いもどってきた」
「そのまんま居ついちまったのか」
「ちょいとわけありでな」
「女か」
 大きな口をあけて、老人は豪快にわらった。
 彼の笑い声がおさまるのを待って、塚田はいった。
「よかったらいっしょに飲みませんか。それに、船を動かさなきゃならないわけを聞きたいな」
「なにを飲んどる?」
「ラムですよ」
「ま、よかろう」
 彼はよっこらしょと桟橋からヨットに乗りうつってきた。
 塚田はキャビンからグラスを取ってくると、酒を満たして老人に渡した。老人はそれをグッと一気に半分ほどもあおった。
 プーッと息を吐きだしてから、にらみつけるような視線をこちらにむけてきた。
「これからどこに行く?」
「日本にもどるだけだよ」
 と、村上。
「この船でか?」
「ああ」
 老人は値踏みするような視線でヨットをながめまわした。41フィートのスループ。先日のレースでいささか痛んではいるが、熟練者がふたりでのんびりと回航しようというのだ。
「とにかく、動かしたほうがいいな」
「なぜですか」
 塚田はふたたびたずねた。
「この場所は縁起がよくねえ」
「縁起?」
「ああ。ここにひと晩つけてた船で、ぶじに航海が終えられた船はねえ。この場所は縁起が悪いんだ」
「おいおい、よしてくれよ」
 村上が苦笑いしながら、手をひらひらさせた。
「おれたちに縁起の話なんかしないでくれ。おれたちほど縁起なんて言葉に無縁の人間はいないくらいなんだ。おれは土地屋、こいつは大学の物理屋さんなんだからな」
「なにも縁起の話をしてるんじゃない」
 老人がグラスを差しだしながら、いった。
「わしはほんとのことしかいわん」
 塚田は彼にラムを注いでやり、ついでに自分たちのグラスも満たした。
「先月のことだ。隣の島の若いやつが、わしのいうことも聞かないでここに一晩、船を泊めた。まだクチバシの黄色いような若いやつだ。カナダから来たダイバーふたりをガイドしていた。ナイトダイビングだとかいって夕方の凪の海に出ていったきり、いまだに帰ってこない」
「凪の海?」
「なにがあったのかは知らん。とにかく、若いやつもダイバーも帰ってこなかった。この桟橋のこの位置に一晩つけた船は、ロクなことがねえんだ」
 村上が塚田と顔を見合わせてから、グラスの酒を口にふくんだ。それから吐きだすようにいう。
「ふん、馬鹿ばかしい」
「馬鹿ばかしいと思うか?」
 老人が気にしたようすもなく、問いかえす。
「ああ、馬鹿ばかしいね。だいたい、縁起をかつぐとかいった迷信くさいことは、おれたち、大っきらいなんだ」
「そうか。迷信か。迷信だと思うか」
「思うね。迷信なんか信じてたら、命がいくつあっても足りないね」
「じゃあ、いってやろう。おまえさんはつい最近、カミさんに逃げられたね」
 村上がギクッとした顔になった。
「じいさん、なんでそれを……」
 いいかけて、あわてて首を横に振った。
「馬鹿ばかしい。あてずっぽうを……」
「あてずっぽうなんかじゃないぞ。わしにはわかる。この島に住んでいると、そういうことがいろいろいとわかるようになるもんでな」
「じゃあ、ほかになにがわかる?」
「おまえさんは最近、商売で大きな損をしたろう。その損を穴埋めするために、けっこうヤバいことをやっておるな。それをこのままつづけると、やがてお縄をちょうだいすることになる。それから……」
 唖然と口をあける村上から視線をそらし、老人は今度は塚田に指を突きつけた。
「あんたのほうだが、職場の人間関係に気をつけるがいい。なんの仕事か知らんが、近いうちに上の者の心証を悪くして左遷されるおそれがある」
 村上も塚田も、返す言葉がなかった。
 ふたりを得意そうな顔で交互にながめると、さらに老人は言葉をついだ。
「この船の船室に子どもの写真が置いてあるだろう。右側にあるそいつを左側に移したほうがいい。マストのウインチはもうすこしさげたほうがいいな。位置がよくない。あんたの着ているその服、色がよくない。この船に乗るときには、赤はご法度だ。よくおぼえておけ。それから……」
 とめどなくしゃべりつづける老人の前で、ふたりの男は顔を見合わせた。
 どちらからともなく肩をすくめ、うなずきあう。
 塚田が老人の手からグラスを取りあげた。立ちあがった村上は、老人の背後のデッキに足を踏みしめた。
 老人の両脇に腕を差しいれる。
「な、なにをする!」
 塚田は老人の両足首をつかんだ。足をバタつかせたが、力はない。酔っぱらっているとはいえ、こちらは壮年の男ふたりだ。
 そのまま身体を持ちあげた。
「足もとに気をつけろよ」
「わかってるって」
 老人の身体を揺すり、反動をつけた。悲鳴をあげながら、老人の身体はライフラインを越えて派手なしぶきをあげた。
 どちらからともなく、笑いはじめた。いったん笑いはじめると、とまらなくなった。
 水面から顔を出した老人が、ふたりにむかってわめいた。
「笑いごとじゃないぞ! わしのいうとおりにしないと、あんたらふたりとも、命はないぞ」
「おまえの知ったことか」
 村上が叫びかえした。
「なんのためにおれたちがこうやって船に乗ってると思ってるんだ?」
 それから笑いの発作がぶりかえし、村上は腹をかかえた。
 あっけにとられている老人の顔を指さしながら、ふたりはいつまでも笑いつづけた。

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